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【源義朝】
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【保元の乱】で苦い勝利を収める
【保元の乱】は義朝の圧勝に終わりました。
保元の乱はまるで平安時代の関ヶ原 ゆえに対立関係を把握すればスッキリわかる
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軍事力においては、子が父を圧倒。
父と弟を相手にした義朝の戦功はめざましく、戦後は右馬権頭に任じられ、さらには不足を申し立てたため左馬頭となりました。
かくして義朝は昇殿を許されたのです。
しかし、義朝が助命嘆願した為義や弟たちは斬られてしまい、官位についても納得ができず、次第に不満が燻ってゆきます。
己こそ戦功第一であろうに、どうしてこの程度の官位なのか?
父も弟も死んでしまったのはなぜだ?
平清盛と後白河院の寵臣・藤原通憲(出家後は信西)の指図では?
清盛など、“へろへろ矢※”しか射てぬくせに、信西に取り入って弟まで高位高官につかせおって……許せぬ!
※へろへろ矢……弱々しく勢いのない矢・『保元物語』に記述されている
如才無く政治力を有した清盛と違い、義朝は強気な性格でした。
清盛一門が出世していく様は、弟たちを失った義朝から見れば許せぬものがあったのでしょう。
義朝も信西には接近を図ったのですが、どうにもうまくいきません。
不満はどんどん高まっていくのでした。
【平治の乱】に敗れる
平治元年(1160年)12月4日のことでした。
平清盛がわずかな従者を連れて、京都六波羅の自邸を出立し、京都を後にしました。
行先は熊野詣。
すかさず義朝は行動を起こしました。
共に起ったのは藤原信頼です。信頼も、信西と清盛体制の中で冷遇されていると不満を抱いていました。
当面の狙いは信西――そこで12月9日(1160年1月19日)夜、義朝は坂東武者を率いて後白河上皇の御所である三条殿を襲撃。
上皇を無理矢理車に乗せると、大内裏一本御書所に連れ去りました。
「信西はどこだ! 信西を探せ!」
必死の思いで探し回りますが、どうしても見つからない。
義朝は三条殿に火をかけ、女房たちを斬り捨て、さらに信西の宿所である姉小路西洞院邸まで焼き払いました。
あまりの惨劇に逃げ出す者がいても、それがたとえ女子供であろうと、信西の変装かもしれないと疑った義朝は次から次へと殺害を重ねてゆきます。
そこまで徹底したにもかかわらず、信西の妻子は脱出に成功。
義朝がどうしようもなく苛ついていると、数日後、自害した信西の首が義朝の元へ届けられました。
溜飲を下げた義朝は、新たに決意します。
次は清盛だ――。
戦上手の嫡子「悪源太」こと源義平も、鎌倉から上洛を果たし準備は万端。
清盛などに武力では絶対に負けない。
しかし、どうにもうまくいかない……なぜだ?
理由は以下の通りです。
・公卿が味方を拒む
義朝たちの期待に反し、京都の公卿たちは清盛側に同情的で心を寄せていました。
あくまで信西を排除し、二条天皇による親政を目的としていた藤原経宗らは、清盛を倒すことまでは同意していなかったのです。
・清盛が戻ってきた!
早馬でこの乱を聞いた清盛は動揺しました。
もはや九州まで向かうしかないのか?と焦燥していたところ、在地武士たちが助力を申し出ます。
百騎あまりで京都に向かうと、さらに伊勢方面から三百余が合流。無事に六波羅帰還を果たしました。
・藤原信頼が無能である
『平治物語』に「文にもあらず、武にもあらず、 能もなく芸もなし」とされるほど彼は無能でした。
初めのうちこそ浮かれていたものの、甚だ頼りにならない存在だったのです。
そしてついに義朝は大義を失います。
人望の無い藤原信頼は、二条天皇の親政を実現した公卿たちと対立。
清盛が、低姿勢で信頼に接し、籠絡にかかると、簡単に上機嫌となってしまいました。
そんな中、二条天皇親政派は、義朝勢が確保していた二条天皇を清盛の六波羅邸経由で脱出させるのです。
後白河院も仁和寺へ脱出。
義朝は、藤原信頼の失策で二条天皇を失ってしまい、その時点で、敗北が確定してしまったのです。
もはや東国へ逃げるしかありませんでした。
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逃亡先で謀殺され
平治元年(1160年)12月26日――清盛と義朝の合戦は、昼に始まり、夕刻には決着。
大敗した義朝は、わずか三十騎ほどで東国を目指し、落ち延びてゆきます。
ここで義朝は、娘たちのことを思い出しました。
江口の遊女を母とする14歳の姫を残していくとなると、謀反人の娘ではどうなることかわからない。
辱められる前に殺すよう、鎌田政清に命じます。
政清が六条河原の宿所に引き返すと、姫は「敵の手にかかるくらいならばその手で私を殺し、首を父に見せて欲しい」と言います。
涙ながらに姫の首を落とした政清。
姫の首を受け取った義朝は、僧侶に供養を頼みました。
しかし、その義朝にも危機が迫ってきます。比叡山の僧兵たちが待ち受けていると知り、思わず政清に当たってしまうのです。
「討死しようと思っていたのに、お前(政清)の言うがままに落ち延びたせいで、山法師(僧兵)に討たれるとすれば口惜しいことよ」
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と、そこへ現れたのが武蔵国の武士・斎藤実盛でした。
彼は僧兵たちに「藤原信頼と義朝は討死している」と言い、自らの兜を投げました。相手がそれを奪い合う隙に、義朝一行はなんとか突破。
すると藤原信頼が率いる五十騎も追いつき、同行を訴えてきます。
「負けたら東国に連れて行くと約束したではないか。心変わりしたのか?」
そう言われた義朝は思わず激怒。
持っていた鞭で信頼の左頬を殴りながら言い返します。
「日本一の不覚人めが! 貴様のせいでこうなったんだぞ、付き合いきれん!」
清盛にほだされ、二条天皇を奪われた藤原信頼。
怯える信頼に変わり、従者が言い返します。
「お前らが強いっていうなら、どうして落武者になっているんだ!」
義朝はますます怒ります。
「あの野郎、殺してしまえ!」
政清は「同士討ちをしている場合ではありません」と止めると、信頼の従者は、殴られても言い返せない主人に呆れて、その場を去ってゆきます。
信頼は、わずかな従者と共に仁和寺へ向かい、後白河院に救いを求めるも、謀反人として許されず――公卿でありながら六条河原で斬刑となりました。享年28。
義朝の厳しい逃避行は続きます。
僧兵に襲撃され、味方は討死。
都に残した頼朝の同母姉・坊門姫15歳のことを思い出すと、渋る後藤実基を説き伏せ、京都で姫の養育をするよう戻らせます。
姫の母は朝廷とも繋がりのある由良御前です。
遊女を母とする姫とは異なる後ろ盾があったのでしょう。
坊門姫は無事生き延び、一条能保の妻となり、同母弟の源頼朝が後援を受けました。かくして彼女は京都でも存在感を見せたのです。
東近江までたどりついた義朝は、目立たぬよう味方と別れ、それぞれ東国を目指します。
義朝には三人の子である義平・朝長・頼朝、さらに平賀義宣、鎌田政清、渋谷金王丸の7人が付きました。
しかしまだ13歳の頼朝は馬上で眠ってしまい、脱落。
いったんは探しにきた政清と合流したものの、降り積もる雪の中で進めなくなり、とうとう追いつけなくなってしまいます。
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馬を失った義朝は、裸足でなんとか尾張野間までたどり着くと、政清の舅である長田忠致に宿を求めました。しかし……。
長田忠致と子の景政は、義朝の首を差し出すことを決意。
何も知らない義朝が風呂に案内されると、そこで襲われ殺されてしまったのでした。
享年38。
京都から落ち延び、わずか三日でのことで、鎌田政清も謀殺されました。
長男の源義平は京都に戻り、永暦元年(1160年)に六条河原で斬られ、二男の源朝長は落ち延びる最中に傷を負って死亡。
三男の源頼朝は伊豆へ流刑となって命を助けられます。
義朝と政清の首は京都に晒されました。
後白河院はその首を探し出し、遺骨を鎌倉へ送らせています。
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