足利義政

足利義政/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

室町幕府の崩壊は八代将軍足利義政から始まった?56年の生涯まとめ

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享徳の乱への介入

鎌倉公方(後に古河公方)足利成氏vs関東管領上杉氏の争いです。

六代将軍・義教vs四代鎌倉公方・足利持氏の対立が巡り巡って、鎌倉公方vs関東管領の構図となり、関東を大混乱に陥れていきます。

これまた関係人物が多くてとてもややこしいので、詳しくは以下の記事にて。

享徳の乱
28年間もドンパチ続いた享徳の乱~足利vs上杉で関東は戦国時代へ

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最終的に幕府軍が鎌倉を攻略し、成氏は古河に逃れて「古河公方」を名乗りました。

こうやって「◯◯公方」が関東に乱立し、秀吉が小田原を攻略するまでの約140年間、ゴタゴタが続くことになります。

ひどすぎて草も生えない。

 

将軍の親裁権強化

政所執事・伊勢貞親を筆頭とし、政所・奉行衆・奉公衆(番衆)をまとめあげ、将軍自身の基盤を強めようとしました。

政所は、幕府の財政や領地に関する訴訟を扱うお役所です。

現代でいえば財務省と裁判所がくっついたような感じでしょうか。

奉行衆は将軍の実務をサポートする人たちで、書類作成や諮問などを行っていました。

将軍の親衛隊にもあたります。

どれも将軍のごく身近なところで仕事をする人たちであり、本来は幕府の中枢です。

なぜ、それまでマトまってなかったのか!?

そうツッコミたくもなりますが、これは伊勢貞親が義政にとって育ての親にも等しく、また実務もデキて信用できる人だったからこそやれたことでした。

貞親が管領や守護大名たちに対抗できると信じられたからこそ、義政は近辺をしっかりまとめあげようとしたのでしょう。

後の時代には、奉行衆と奉公衆が大ゲンカしたりします。だからなんですぐ仲間割れするの?(´・ω・`)

これらの背後では山名宗全(持豊)と細川勝元の対立が始まっていました。

この辺は宗全・勝元それぞれの側から見たほうがわかりやすいので、詳しくは以下の記事をご覧ください。

山名宗全(山名持豊)
六分の一殿と呼ばれた山名宗全~応仁の乱で西軍大将となった武将の力量は?

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細川勝元
戦国時代を招いた細川勝元~応仁の乱は東軍視点で見るとわかりやすい

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周囲のドタバタが徐々に増えていく

長禄三年(1459年)には、長年住み慣れた烏丸殿から父・義教が住んでいた室町殿(花の御所・義満が作った)へと引っ越しています。

これもイメージ戦略でしょうね。

残念ながら、状況と足利義政自身の言動によってぶち壊しになってしまいますが。

他にも、畠山義就が勝手に「将軍の命令だ!」ということにして大和に兵を出すわ、越前では守護大名の斯波義敏とその家臣である甲斐常治が長禄合戦をおっぱじめ、結果的に共倒れ同然になるわで、義政の能力以前の問題もありました。

ものすごく俗な表現をすると、この頃の義政は

”歯科医院に行って『痛かったら手を上げてくださいね^^』と言われたので手を上げたら、『ハーイ我慢してくださいねー』とゴリ押しされた上に手を押さえつけられた”

みたいな感じだったのではないでしょうか。

応仁の乱の前年である文正元年(1466年)7月には、琉球国王の使者を義政の屋敷で謁見したという記録があります。

庭に席を設けてもてなしたそうで、旧暦7月=新暦8月の京都で屋外となると、結構ツライような。

義政の屋敷=室町御所は現在の京都御所の北西あたりだったのですが、ここは鴨川からも離れています。

木陰に席を設けたとか、涼しくする工夫は何かあった……と思いたいところです。

また、このとき琉球からの礼物が「進物」と呼ばれているあたり、琉球を下に見ていたことがわかります。

記録した人がそう思っていただけで、義政がどうだったかはわかりませんが。

 

弟を後継者に据えた、と思ったら!

さて、いよいよ応仁の乱が見えてきました。

この頃から足利義政は、既に政治への関心どころか将軍家の一員としての責任からも逃げたくなっていたようです。

息子がいなかったため、出家していた弟・足利義尋を無理やり還俗させて「足利義視」と名を改めさせ、後継者に据えてしまいます。

その翌年、富子が実子・足利義尚を産んでしまい、将軍様の跡継ぎ問題から【応仁の乱】へと進展……というのが従来の授業で習う展開ですよね。

応仁の乱
応仁の乱って一体何なんだ? 戦国時代の幕開け乱戦をコンパクト解説

続きを見る

しかし、足利義視に将軍をやらせた後、実子の足利義尚に就任させればOK、と日野富子も考えていたというのが最近の潮流であり、それよりもむしろ畠山家の内紛などが他の有力者へ飛び火。

特に管領の山名宗全(持豊)と細川勝元の対立が激化し、諸大名が絡んで京都がドッタンバッタン大騒ぎになるわけです。

問題は義政。

こうした状況に対し「イチ抜けた」と言わんばかりにトンズラを始めるのです。

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