足利義政

足利義政/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

室町幕府の崩壊は八代将軍足利義政から始まった?56年の生涯まとめ

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もはや職務放棄で引退&銀閣寺の下準備

山名と細川の対立を仲裁もせず、トラブルはもうイヤ!

とばかりに職務放棄を始めた足利義政は、乱の真っ只中である文明五年(1473年)、息子の足利義尚へ将軍職を譲り、ご隠居様になってしまいます。

足利義尚
九代将軍・足利義尚が酒色に溺れて早死したのは「応仁の乱」のせいなのか

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さらに十年後には京都・東山に山荘を作りました。

トラブルを放置する気満々です。

京都の中心部が大炎上しているというのに、完全に逃げているわけでもなく、ギリギリ洛外になるかならないかのあたりを選んでいるところがまた絶妙なんすよね。

「僕は関係ないから戦火になんて巻き込まれないよ^^」みたいな?

出家して銀閣(慈照寺銀閣)を作ったのはその後の話です。

ちなみに、息子の9代将軍・足利義尚のほうが陣中で先に亡くなってしまったので、義政もほんの僅かな間政務へ復帰します。

「僅か」だった理由は、その8ヶ月後に義政も病死してしまうからです。

享年56。

当時の寿命としては早くはありませんが、この経緯だと何だか「嫌な仕事に復帰させられたせいで命が縮んだ」ように見えてしまいますね……どんだけー。

 

功績は一応2つありまして

足利義政が行ったことの中で、功績と呼べるものは二つです。

一つは言わずもがな【東山文化】です。

庭師の善阿弥

狩野派の絵師・狩野正信

土佐派の土佐光信

宗湛

能楽者の音阿弥

など、義政がパトロンとなって活躍した芸術家はたくさんいました。

床の間に生花などを飾り、書院で茶を嗜む風習が生まれたのも、義政が好んだ様式からだとか。

また、義政が自ら猿楽を見に行ったため、能が発展するきっかけにもなったといわれています。

もう一つは、勘合貿易の復活です。

三代・足利義満が始め、四代・義持が中断し、六代・義教が再開したものの、七代・義勝がすぐに亡くなったせいで混乱が起き、義政が宝徳三年(1451年)に二度目の再開をさせていました。

ここから明との貿易は16世紀半ばまで続き、大陸からの文化伝達と財政が活発化しています。

勘合貿易(日明貿易)
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もちろん、東山文化にも影響を与えているというか、義政はそのお金で芸術家のパトロンになれたというか……。

義政が真面目に将軍をやっていた頃は、室町幕府の運営費用になっていたようですけれども。

そんな有様なので、貿易の実権も細川氏や大内氏に奪われてしまい、結果として足利氏もビンボーになってしまいました。

貿易を通じて禅僧を招いたこともあったのですから、せめて政治に関する意見を求めるなり、貞観政要(※)の講義を頼むなり、いろいろとできることはあったはずなんですけどね。

応仁の乱を避けるためには、「義政が最後まで政務への情熱を失わないこと」がキーだったのかもしれません。

それはそれで無理ゲー臭がしますが……。

貞観政要
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三節会

足利義政が亡くなったのが1月7日だったため、朝廷の新年行事の一つ【白馬節会(あおうまのせちえ・魔除けになるとされていた白い馬を天皇の御前に引き出し、宴をする)】が中止になりました。

さらに、翌年の同じ日に義政の弟・義視が亡くなり、二年連続で【白馬節会】だけが行えなかったそうで……。

当時は呪詛が信じられていた時代ですから、魔除けにもそれ相応の重要性と意味があって大事なものでした。

ついでにいうと、白馬の節会を含めた正月の三つの行事を「三節会」といいます。

これらは応仁の乱で中断しており、この年になって久々に再開することになっていました。

寿命は操作できませんから、仕方のないこととはいえ、当時の公家たちは「最後の最後まで迷惑をかける兄弟だな(#^ω^)」という気分だったでしょうね。

ここから先の将軍はますます影が薄くなり、入れ替わるように戦国大名と愉快な武将たちの力と人気が高まる時代に入っていきます。

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長月 七紀・記

※貞観政要(じょうがんせいよう)

唐の太宗の政治に関する言行を記録した本で、帝王学の教科書として使われていた。

日本には平安時代に伝わっており、一条天皇北条政子が講義を受けたことがある。

徳川家康が熱心に研究したことでも有名。

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【参考】
国史大辞典「足利義政」
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon
足利義政/Wikipedia

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