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【三浦義澄】
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一条高能と頼朝の娘・大姫との縁談話は……
建久五年(1194年)閏8月1日、頼朝が外甥の一条高能を連れて三浦へ出かけたことがありました。
この地へ山荘を建てるための下見だったようです。
昼は御家人たちが小笠懸(遠距離に置かれた小さな的を馬上から射る競技・流鏑馬よりも難易度が高いとされる)を演じ、夜は義澄の主催による盛大な宴会が催されています。
実はこの直前、一条高能と頼朝の娘・大姫との縁談が持ち上がっていました。
しかし大姫が最初の婚約者・源義高(木曽義高)を忘れられず、激しく拒絶したために破談となっています。
高能に対してこれがどのように伝えられたのかはわかりませんが、この遠出や宴は、頼朝からの詫びの気持ちも含まれていたのではないでしょうか。
例によって宴会の料理については詳細が書かれていませんが、吾妻鏡では
「良い酒や珍味が出され、景色も素晴らしく、良い宴だった」
と書かれています。
おそらく義澄も貴人のもてなしという以上に気を遣ったのでしょう。
ちなみにこの宴、夕方になってから政子・頼家・大姫の三名もやってきています。
高能と話したのかどうか――残念ながらそのあたりについては記録がありません。
翌2日も小笠懸が行われた後、船上で宴会が催され、猿楽の芸人や遊女などが呼ばれて「上下の人々が大笑いした」といいます。
頼朝と高能が鎌倉へ戻ったのは3日ですので、この「大笑いした」中に二人も含まれていたのでしょう。
となるとやはり単なる物見遊山ではなく、高能への接待という面が強かったのではないでしょうか。
頼朝自身がかなり気に入っていたのでしょう。
同年9月にも三浦の別荘へ出かけると、個人的にもこの場所をかなり気に入っていたようです。
この時期の頼朝は「歯痛に悩まされていた」という記述が散見されるので、気晴らしを求めていたのかもしれません。
義明山満昌寺
9月29日、頼朝は【衣笠城の戦い】で散った三浦義明を偲び、義明山満昌寺(まんしょうじ)を開きました。
ここには頼朝の手植えとされるツツジの木があり、その下をくぐると頭痛が治るという伝えられています。
『吾妻鏡』にはこの後も頼朝の歯痛に関する記述がたびたび見られるため、残念ながら本人へのご利益はなかったようです。
まぁ、当たり前ですが、歯痛の数日後に三浦に来たこともあるので、頼朝本人は期待していたのかもしれませんね。
建久六年(1195年)1月25日にも頼朝は三浦へ出かけ、義澄らが船上の宴でもてなしています。
頼朝は寺社への参詣や開眼供養、上洛の他に外出したという記録があまり多くないのですが、三浦の何かをよほど気に入っていたのでしょうか。
この年は三浦から帰って間もない2月2日に上洛の支度を始めているので、義澄と何らかの相談をしたのかもしれません。
この上洛の際も義澄はお供をしています。
ただし、3月27日の頼朝参内や4月15日の石清水八幡宮参詣の際は、義澄ではなく息子の義村が従っていました。
他の御家人たちも代替わりしている家が散見されるため、頼朝と義澄の間で打ち合わせをしていてもおかしくはなさそうです。
同じく建久六年9月28日には、平清盛の弟・平教盛の子である天台宗の僧侶・忠快(ちゅうかい)を三浦に招いています。
『吾妻鏡』では「義澄は仏教を厚く信仰しているため、忠快を引き受けた」とあります。
義澄は既に70歳を迎えようという頃合いになっており、来世を考えることが増えていたのでしょう。
それからおよそ一ヶ月後、10月26日には頼家が鶴岡八幡宮と三浦の久里浜大明神(おそらく横須賀市久里浜の住吉神社)に参詣。
翌日帰る際、義澄が引き出物を献上し、帰路で和田義盛の屋敷へ寄っています。頼家とのパイプもでき始めていたという感じでしょうかね。
頼朝としては、おそらく自分が健康なうちに将軍職を頼家に譲り、院政に倣う形で後見役を務めていくつもりだったでしょう。
しかし建久九年(1198年)12月27日のことでした。
相模川の橋供養に出席した帰路で体調を崩した源頼朝は、翌正治元年(1199年)1月13日に亡くなってしまいます。
『吾妻鏡』ではほとんど触れられておらず、死因は未だに不明。
先述のように、頼朝が数年前からたびたび歯痛に苦しんでいたことから、現代では「歯周病の悪化による誤嚥性肺炎ではないか?」という説が出ており、今後の研究成果が待たれるところです。
頼朝死後の政治体制は
義澄ら幕府草創の功臣たちは、頼朝の跡を継いだ源頼家に引き続き仕えました。
しばらくは頼家の親裁も行われていましたが、将軍職継承から半年も経たない正治元年4月には十三人の合議制を設置。
義澄もこの一員に加わりつつ、別の仕事も担当しています。
頼朝は亡くなる直前まで、次女・乙姫(三幡)を入内させるべく、朝廷や公家へ働きかけていました。
既に女御の称号は与えられており、入内は秒読み同然となったところで頼朝が亡くなったため、先延ばしになっていたのですが……当の乙姫が、頼家の将軍就任からまもない2月に病気になってしまいます。
入内が決まった女性でしたので、院宣によって名医と名高い丹波時長が鎌倉へ下ってきました。
この時長の接待を、義澄や時政が順繰りで行っています。
十三人の合議制は常に13名揃って会議をしていたわけではないため、おそらく時長が鎌倉にいる間は、訴訟などへの対応は他の人が主に行っていたのでしょう。
乙姫は一旦小康状態になったものの、この年の夏に再び容態が悪化。
時長も「これはもう医師の手には負えない」と匙を投げ、京へ帰ってしまいます。
そして程なくして乙姫は世を去り、源氏には他に年頃の娘がいなかったため、入内をきっかけに朝廷との関係を深めることができなくなってしまいました。
乙姫の乳母父だった中原親能(なかはらのちかよし)は出家し、亡骸は親能の屋敷近くに葬られました。
埋葬の際は義澄ら重臣たちが参列したそうです。『吾妻鏡』では「多くの人々が嘆き悲しんだ」とありますので、重臣たちの中にも涙をこぼした人がいたのかもしれません。
そして、なんとも不穏な空気の中で、御家人たちの間に暗雲が垂れ込めてきます。
正治元年12月の梶原景時排斥事件です。
詳細は梶原景時の記事をご覧ください。
なぜ梶原景時は御家人仲間に嫌われた?頭脳派武士が迎えた悲痛な最期
続きを見る
このとき66名もの御家人が景時に対する弾劾状に名を連ねていますが、その中に義澄も含まれていました。
景時と義澄の間に具体的なトラブルがあったかどうか?
目立つ記録はありませんが、頼朝の随行などを共に務めることは多々ありましたので、日常における言動の中で、義澄が景時にあまり良い印象を持っていなかった……というのはあり得るかと思います。
この弾劾状は少々時間を置いて頼家に提出され、景時は地元の相模一ノ宮へ。
ひとまず落ち着いた正治二年(1200年)1月、三浦義澄は生涯最後となる椀飯の役を務めています。
そして1月23日に亡くなりました。
梶原一族の件について報告が届いたのは、義澄が亡くなった日の夕方だったといいます。
景時はいかなる目的からか、一族を率いて上洛しようとしていました。その道中である駿河で、地元の武士に襲われ自害した……ということになっています。
三途の川で義澄と景時が鉢合わせていたら、そこでもひと悶着あったかもしれませんね。
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長月 七紀・記
【参考】
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon)
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
ほか