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【丹後局】
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まるで楊貴妃ではないか
夫の死から2年後の養和元年(1181年)10月。
丹後局は後白河法皇の皇女・覲子内親王(きんしないしんのう)を産みました。
前述の通り生年不明の彼女には、仁平元年(1151年)の生誕説があり、それを前提にすると当時としてはかなりの高齢出産です。
周囲の公卿たちは、次第に
「子を産むだけでなく、政治まであの女の紅唇に操られ、まるで楊貴妃ではないか」
と囁くようになりました。
なぜ楊貴妃が出てくるのか。
後白河天皇に仕えた人物として、信西(しんぜい)という学識豊かな僧がいます。
2012年大河ドラマ『平清盛』では阿部サダヲさんが演じていましたが、その信西が玄宗の例を挙げて後白河法皇に釘を刺したのです。
玄宗は統治のはじめこそ【開元の治】という善政をしいた。
しかし楊貴妃に溺れてからは政務を怠り、【安史の乱】という一大事を招いたのである。
くれぐれもそのようなことにならぬよう、用心めされよ――。
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信西は【平治の乱】における混乱の中、自死を遂げます。
そんな信西が予測していた事態が起きます。
丹後局も楊貴妃になぞらえられるようになるのです。
平家への復讐を果たせば
そもそも楊貴妃は悪女なのか。
彼女自身に政治的野心はなく、白居易『長恨歌』では悲劇のヒロインとされますが、とにかく安史の乱があって評価は下げられたまま。
マリー・アントワネットとよく似た非難のされ方で、人心に一度染み込んだイメージは拭い難いものがあります。
なんせ平安時代の代表作『源氏物語』でも光源氏の母・桐壺更衣の寵愛ぶりが楊貴妃に喩えられ、非難のニュアンスが伝えられます。
では丹後局は、実際に”悪女・楊貴妃”のような行動をしていたのでしょうか。
夫を殺した平家への復讐に燃えていたことは確かでしょう。
平家の血を引く安徳天皇が都落ちをしたあと、後鳥羽天皇を立てるように進言したのが丹後局とされていますが、前述の通り、丹波局との混同の可能性もあります。
そして元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日――平家滅亡の象徴である【壇ノ浦の戦い】が勃発。
源氏が勝利して、丹後局の復讐劇も完遂した、そんな達成感はあったでしょう。
しかし、幼い安徳天皇が海に沈むことまで望んだかどうかは不明。
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憎き平家が滅び、建久3年(1192年)に後白河法皇が崩御しても、彼女の政治参加は止まりませんでした。
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