鎌倉・室町・江戸の三つの幕府は、同じ武家政権でも異なる点が多々あります。
室町幕府は半分近い期間がお飾り状態でしたし、江戸幕府は制度がかなり充実して260年もの平和を生み出しました。
では鎌倉幕府は?
というと、おそらく「三代で断絶した」ことが一番の特徴のように思えてしまうかもしれません。
しかし、それは源氏将軍であって、鎌倉幕府の将軍自体は三代以降も続きます。
建長四年(1252年)4月1日は、宗尊親王が初の皇族将軍になった日です。
宮将軍とか親王将軍などとも言いますが、ここでは皇族将軍で進めて参りましょう。
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存在エアな皇族将軍を確認しよう
源氏の血を引く将軍が絶えてから後、鎌倉幕府は公家や皇族を将軍の座に据えて幕府という形を保っていました。
三代・源実朝の後に藤原氏が二人将軍になり、うまく行かなかったので「今度は皇族の方お願いします」という流れで、皇族将軍という字面だけはカッコイイ立場ができたのです。
鎌倉幕府自体は「北条幕府」同然の状態だったので、実権はありません。
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ただし【承久の乱】の後。
さらに権力やお財布事情が衰退していた皇室としては、一人だけでもある程度体面を保った状態で生活できるというのは、悪すぎるという話ではありません。
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何もメリットがなかったら、そもそも「東国(笑)」みたいな印象しか持っていなかったような地域に大事な皇族を送りませんしね。
そんなわけで、皇族将軍四人の業績と呼べるものは特にありませんが、鎌倉時代のおさらいを兼ねて、どの方の時代にどんなことがあったのかまとめてみましょう。
以下、お名前の後の年号は将軍になった年です。
宗尊親王 建長四年(1252年)
宗尊親王は生まれた順番的には長子でした。
が、母方の身分が低かったため、皇位継承の望みがなく宙ぶらりんな立場にありました。
そこで鎌倉から「将軍やってもらえませんか」という話が来たので、当初は顔も立つしお互いにいいんじゃないかということで丸く収まったようです。
宗尊親王はそこで腐らず、趣味の和歌に打ち込んだため、鎌倉の武士にも歌をたしなむ人が増えたといわれています。これは功績といってもいいかもしれません。
が、宗尊親王の正室・近衛宰子の浮気容疑から謀反の疑いをかけられてしまい、本人は悪くないのに将軍解任と京都への強制送還が決まってしまいます。
このとき北条氏の分家筋の人が味方についてくれたのですが、決定を覆すことはできませんでした。
その人も、どちらかというと親王に味方したというよりは北条本家がムカついたから逆らったというだけだったみたいですしね……。
京都に帰った後、お父上の後嵯峨法皇が亡くなったのに際して仏門に入り、ご本人も33歳というお若さで亡くなりました。
惟康親王 文永三年(1266年)
宗尊親王の嫡男に生まれ、満2歳で将軍の位に就いた方です。これほどお飾りなのが見え見えな人を据えるのも珍しいですね。一週まわって清々しいほどです。
この方の時代には、二度の元寇がありました。
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再三になりますが、皇族将軍に実権はなかったので、惟康親王が指揮を取ったとか元への反抗を決めたということはありませんでした。
皇族を旗頭にすれば士気が上がりそうなものですけども、日頃重んじられていなかったからこそそういう役割もしなくて済んだんでしょうかね。
元寇の頃の執権(鎌倉幕府の実質的トップ)は、大河ドラマにもなった北条時宗でしたので、皇族を九州に行かせて士気を上げろとかいう無茶振りをする人ではなかったというのも大きそうです。
皇族将軍の中では一番長生きしていて、35歳で将軍を下りた後、京都で出家してから62歳まで生きました。
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