奥州合戦

源頼朝と奥州藤原氏(三衡)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦なぜ起きたのか 真の狙いは義経じゃない?

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朝廷からの追討宣旨なき出兵

『鎌倉殿の13人』では、朝廷に対して苛立つ源頼朝の姿が見られました。

後白河法皇は何を考えているのか?

平家を討ったと言ったかと思えば、今度は頼朝、そして義経を討てと詔を出す。

鎌倉武士たちは大いに振り回されましたが、そもそもシステムに問題があることにお気づきでしょうか?

兵を挙げる上で、なぜ、いちいち朝廷のお伺いを立てねばならないのか。

そこで頼朝は、逆に、朝廷に対して揺さぶりをかけるようなことをしています。

文治3年(1187年)、東大寺大仏の再建を名目にして、奥州藤原氏から砂金三万両を献上するよう後白河法皇から院宣を出させたのです。

砂金三万両とは、あまりに莫大な量であり、到底できないと秀衡も断っています。

これを受けて頼朝はこう考えたとか。

「秀衡は院宣を重視していない上に恐れてもいない。引き受けるつもりがないようだ。なんとも奇怪なことではないか」

嫌がらせのような要求をさせておき、いざ秀衡が断ったら状況を分析する。なかなかの策です。

そして翌文治4年(1188年)、源義経の奥州潜伏が発覚します。

吾妻鏡』では、以前から義経が奥州にいたような記述もあるのですが、九条兼実の日記等他の史料と照らし合わせると、朝廷まで含めて発覚したのはこの年となります。

朝廷は、頼朝を義経の追討使に任じました。

しかし肝心の頼朝が、亡母供養の五重塔建立と厄年を理由に、朝廷からの命令を断っているのです。

動いたのはその約1年後のこと。

長きにわたる殺生禁止期間を終えると、ようやく奥州出兵のため立ち上がりました。

すでに文治5年(1189年)になっていて、朝廷から追討宣旨は得られません。

そこで幕府において重きを為していた大庭景能は『十八史略』前漢文帝の故事を引きます。

軍中将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずと云々。

軍事では将軍の命令を聞くものであり、天子の詔を聞かないとかなんとか言います。

奥州藤原氏は源氏の御家人に過ぎない。将軍が軍中において従わぬ家臣を罰するのだから、許可なぞ必要ない。そう解釈したのです。

この論に従えば、いちいち朝廷の許可を得ずに軍勢を動かすことができる――そんな理論のもと、奥州合戦は進められてゆきます。

いわば源平同士の内乱であり、その最終章と位置付けられたのでした。

 


空前の大動員と忠義の確認

頼朝発【奥州合戦】における鎌倉軍は空前の規模となりました。

西は九州からだけでなく、木曽義仲や源義経に仕えていた者たちまでもが動員され、鎌倉に続々と御家人たちが押し寄せてきたのです。

こうした大軍勢の前で頼朝は陣頭に立ち、下知を下しました。

その数、先陣だけでもなんと2万騎。

『吾妻鏡』によれば28万4千騎に達したとか、さすがに大幅な誇張があるにせよ、空前の大軍勢には違いありません。

規模があまりに大きかったせいか、平泉では秀衡の息子・藤原泰衡が自ら火を放っており、戦いというより残党討伐のような有様と化します。

そして空前の大動員は、武士の在り方まで変えました。

頼朝が陣頭に立つ。朝廷の意向は問わない。西国まで動員されている。

頼朝の命を受け、梶原景時和田義盛が奉行となって兵士を管理する。

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かつて木曽義仲や源義経に味方をしていた者でも、参陣すれば免除される。

逆に参陣しなかった者は制裁対象。所領没収までありました。

軍事を有する武士という勢力が、朝廷を無視して政治を動かすことができる――卓越した政治家である頼朝はそれを証明したのです。

日本史における武士政権は、かくして成立しました。

 


日本史の特異性があらわれた契機

武力を持った軍人が、朝廷の意向を無視して勝手に動く――実は中国の歴代王朝でも、そんな事態を恐れてきました。

前述のように『十八史略』を引くことで鎌倉幕府は正統化をしておりますが、あくまで例外的なことであり、中国史ではそうした事態を防ぐべく知恵を練ってきたのです。

唐の最盛期を大きく損ねた【安史の乱】は、日本でもしばしば反面教師として学ばれてきました。

しかしそれにも限界があったのでしょう。

武士が朝廷の手綱をはずれ、大軍勢を動員して政治を担うという、日本の歴史が成立したのです。

中国にはあって日本にはないこと、として【易姓革命】があります。

天命を失った天子は、他の姓を持つ有徳者によってその地位を追われるという思想です。

しかし、日本の天皇制ではこれは適応されず、一方で実質的な政治を担う幕府が入れ替わる構図となったのです。

天皇がいて、将軍がいる――その特異性は、幕末に来日した欧米諸国の人々を混乱させています。

「日本は将軍が統治者なのか? それとも天皇? どうなっているんだ?」

このような日本史を特徴づける転換点は、この奥州合戦にありました。

『鎌倉殿の13人』では、弟の義経が“天才戦略家”とされています。

それでは兄の頼朝は?

卓越した政治家であり、それこそが彼の本質と言えるのでしょう。

弟・義経の死までも政治的に演出し、悪名をものともせず、歴史を変えた源頼朝。

今回の大河でイメージダウンといった感想もありますが、それはどうでしょうか。

むしろ政治家としての実力を描くという点において、2022年の大河は大きな転換点になるかもしれません。

弟を追い詰めた憎い兄としての頼朝でなく、その政治力を味わいたいところです。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(→amazon
関幸彦『東北の争乱と奥州合戦』(→amazon
五味文彦『源義経』(→amazon

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