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【平安末期~鎌倉時代の呪術】
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呪詛:血を流さない暗殺手段
『鎌倉殿の13人』では、源頼朝の挙兵に対して平清盛がこう言いました。
もはや手段は選ばない。
そう宣言されたあと、後白河法皇が文覚を呼び出し、呪詛を頼む――。
現代人からすれば非科学的で、迷信じみていますが、「厨二病かよ」と捨てるのではなく、一歩踏み込んで、なぜそうなったのかを考えてみます。
そもそも平安時代は呪詛が大流行していました。
非常に陰険なようでいて、その背景には、彼らが流血を嫌うという理由がありました。優しさというより「穢れを嫌う」という発想もあります。
ともかく彼らは呪詛を選んだ。
坂東武者はカッとなれば簡単に人を殺す一方、京都の貴族は殺人以外の解決法に頼っていた。
もちろん暴力沙汰が皆無とは言いませんが、とりあえずワンクッションとして呪詛があります。
そして需要あれば供給あり。
貴族の呪い、その依頼を受けるプロの呪詛専門家がいました。
いわば暗殺者ですね。
平安時代、陰陽師がいたことは知られていますが、種類があります。
・官人陰陽師:官位を持つ有給の陰陽師。国家公務員としての陰陽師とご理解ください。
・法師陰陽師:フリーランス陰陽師。法師、すなわち仏僧の服装の者もいた。
官人陰陽師の場合、呪詛返しも業務内容に含まれ、休みを利用して副業で呪詛返しをすることもありました。
ただし、公務員でありながら呪詛を仕掛けるのはまずい。当時の呪詛は犯罪です。それゆえ自然と制御が働いた。
呪詛を手がけた官人陰陽師は、副業で犯罪に手を染める悪徳公務員なんですね。
一方、法師陰陽師は、食べていくために呪詛を引き受けることにためらいがありません。
紫式部や清少納言は、したり顔で術を行う法師陰陽師を見て「なにあれ、嫌な感じ……」と書き記しています。犯罪を請け負う胡散臭い存在だったのでしょう。
そこで文覚です。
彼はなぜ、後白河法皇から呪詛を依頼されたのか。
もちろん当人の技術や評判もあるのでしょう。
しかしそれだけでなく、彼はあの時点ではフリーランスだったと考えられます。
陰陽師ではなく、仏僧ではあるものの、朝廷からは遠い存在。しかも流刑で伊豆を放浪している。
要は、平家や朝廷の目から逃れやすかったため、指名されたとも考えられます。
呪詛となると、現代人からすれば実態不明のように思えます。
しかし当時はビジネスとして成立しましたから、身分や立場という要素も絡んでいたのでした。
呪術:教養がないとできません
呪術のスキルとは何か?
ここで考えたいことがあります。
呪いのお札を思い浮かべてください。
大体が、漢字や梵字になると思いますが、そもそもそうした文字は、知識がなければ書けませんよね?
呪術や呪術返しは、掌に文字を書いたり、お札を用います。
日本の呪文は和歌や漢詩を唱えます。
つまり、ある程度の教養と記憶力が必要でした。
坂東武者は、なぜ呪詛を好まないのか?
というと、直接的に暴力を振るう解決手段があったことも確かですが、そもそも教養が必要とされるため難易度が高かったのです。
『鎌倉殿の13人』では、上総広常が京都の連中に笑われたくないからといって、文字を練習をしているシーンがありました。
彼のような坂東武者は、呪いをかけることも、返すこともできません。
それには高度な文字が必要だったから、です。
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