判官贔屓

源義経/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

悲劇の牛若丸が日本人に「判官びいき」される理由~なぜ義経は頼朝に討たれた?

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
義経が頼朝に討たれた理由
をクリックお願いします。

 

義経の鎌倉入りを許さなかった理由

なぜ頼朝は、義経を追い返しのか?

主に挙げられる説は以下の3つです。

①義経に恨みを持ち続ける頼朝の部下の梶原景時による讒言(告げ口)で、義経に対して危機感を持つようになっていたから

②頼朝に相談も許可もなく、後白河上皇から判官の官位をもらったから

三種の神器を平家から取り返すことができなかったから

一般的なイメージでは①梶原景時の告げ口が原因とされていますが、実際には②と③が大きい要因でした。

梶原景時
なぜ梶原景時は御家人仲間に嫌われた?頭脳派武士が迎えた悲痛な最期

続きを見る

頼朝はこの時点で武家をトップにする政権構想を持っており、その重要な要素となるのがが朝廷から独立した「人事権」。

この構想をちゃぶ台返しするように、弟が朝廷からホイホイと官位を貰っては、世間や御家人に対して示しがつきません。

言わば、源頼朝の顔にドロを塗ったんですね。

細かく言うと、検非違使の尉というのは、これまで院(上皇)の側近がつく職でした。

さらに平氏滅亡後には院御厩司(後白河の馬担当幹部)にまでなってしまい、頼朝からすれば『あいつ、なにやっているんだ!!!』と激怒するのも仕方ありません。

御家人
鎌倉時代の御家人は普通の武士と何が違う?御恩と奉公そして実際の手続きにも注目

続きを見る

源頼朝
源頼朝が伊豆に流され鎌倉幕府を立ち上げるまでの生涯53年とは?

続きを見る

 

三種の神器

さらに③「三種の神器」も最近の歴史研究では注目度が高まっています。

頼朝は平家すら滅亡させるつもりはなく、源平合戦での最重要の任務として、幼少の安徳天皇(および三種の神器)の確保にあげて厳命していました。

天皇を戻す条件で平家と和解する準備も進めていたとも言われています。

それをアッサリご破算にしてしまったのが義経だったんですね。

なお「三種の神器」とは



を指します。

天皇の正当性を証す、天皇家にとって最も大切な宝物。これらを持たない場合は正式に天皇としては認められないのです。

壇ノ浦の戦いの時、安徳天皇とともに壇ノ浦の海底に投じられ、玉と鏡は回収され、剣はとうとう見つからなかったのですね。

ただ、三種の神器は不思議なことに「3種=3つしかない、というわけではない」のです。

複数ある。
というわけで、現在も三種の神器は三種きちんと存在しています。

※玉と鏡は皇居、剣は名古屋市の熱田神宮にある

こうした兄の大戦略をことごとくひっくり返したのが義経というわけですね。

しかも、そのことを謝るではなく最後まで理解していませんでした。

たしかに頼朝も、どうかと思うことをしています。

義経を鎌倉に呼びつけておきながら、「俺褒められるぅ」と舞い上がった義経と会わずに京都へ戻すという非情なことをやっているんですね。

いや、非情ではないのかもしれません。

むしろ頼朝は「血のつながった弟だから、最後は俺の考えを言わずとも分かってもらえる」と甘い期待を抱いて、こんな逆効果な措置をしてしまったのかもしれません。

 

 さまよう義経

失意と怒りを貯めた義経は京都で武装蜂起をはかります。

頼朝の命により暗殺されそうになったのが原因ですが、どっちが先かは微妙なところです。

実際には、頼朝に対してもっと怒っていた在京都の重鎮・源行家さんという人がいて、彼が明らかに反鎌倉で立ち上がろうとしていました。

源行家
戦は下手でもメンタルだけは強い!源行家は墨俣川の戦い惨敗後も粘り続けた

続きを見る

頼朝は義経にラストチャンを与えて「行家を討て」と命じるのです。

しかし、義経は「自分は病気なので治ったら考えます」とやんわり断り、この一件で頼朝は「義経が裏切る」と判断するに至ります。

当時の公家の日記『玉葉』にその記録があります。反鎌倉の動きを見せている行家について、後白河から「義経、お前止めてこい」と命じられ、こう答えているのです。

義経「私は所領を没収されてました。誅伐されるという噂もあるし、いっそ行家さんに味方しようと思います」

そんなときに、鎌倉から義経暗殺を命じられた武装坊さん土佐防昌俊が60騎を率いて義経の六条室町邸を急襲します。

義経はこれを撃退すると、後白河のもとへ駆け込み(半ば脅したのでしょう)、頼朝追討の命令書を発行させました。しかし……。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-源平・鎌倉・室町
-

×