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【義経が頼朝に討たれた理由】
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近畿エリアを放浪すること約1年
頼朝の追討は不発に終わりました。
挙兵はしたものの、近畿で呼応する武士はほとんどおらず、船で九州の豊後(大分)に逃げて再起しようと決意。
行家さんや弁慶ら、わずか200騎で大物浦(兵庫県)を出発しますと、嵐にあって難破してしまいます。
天王寺、吉野山、多武峰、十津川、伊勢神宮、興福寺、比叡山など、近畿地方を潜すること約1年。
激動ですね。
こんなに濃い年を過ごしている人がこの時代居るのでしょうか。
天国から地獄へと急降下で向かっています。
◆1189年(文治5)
平穏も2年しか続かず、秀衡が死に、泰衡の代になって衣川の館に居た義経は襲われ、奮闘するも死んでしまう。
弁慶の立ち往生というエピソードはとてもとても有名ですね
しかし……鎌倉に届けられた首はすでに腐敗していて、本人かどうかの判断できなかったのではないか? なんて言われています。
繰り返される英雄・義経は生きている
英雄・人気者はなかなか死なない。
ドコかで命を繋いでいて欲しい。
そんな願いから、様々な生存説が流れますが、義経がその筆頭かもしれませんね。
いくつかの伝説を見てみましょう。
① 義経は蝦夷に渡っていた伝説
・ 東北から北海道にかけては、義経の名前が付いている寺社がいくつか存在しています
・ 義経の遺品も伝えられています
※蝦夷→北海道、樺太、千島の総称
② 義経は中国大陸に渡っていた伝説
・ 義経は金に逃れ、義経の子が金の将軍となったとも
・ 清王朝の先祖は義経で、清という国号も清和源氏から取ったとも
・ モンゴル帝国の創始者・ジンギスカンになったとも
どの伝説も、研究されては否定されています。
が、判官びいきの最たるものとして、いつまでも興味と関心が尽きませんね。
なお、源義経の生涯をご確認されたい方は以下の記事へどうぞ。
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さぶりく・記
【参考】
鈴木健一『義経伝説―判官びいき集大成』(→amazon)
上横手雅敬 『源義経 流浪の勇者』(→amazon)
井沢元彦『学校では教えてくれない日本史の授業 悪人英雄論』(→amazon)
井沢元彦『伝説の日本史 第二巻 源氏三代 血塗られた伝説』(→amazon)