歌川貞秀の描いた和田義盛/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

和田義盛は坂東武者のカリスマだ!なのになぜ滅亡へ追い込まれてしまったのか?

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和田義盛
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房総で助力を得て態勢を建て直す

三浦一族が本拠の衣笠城へ戻った数日後、畠山軍が攻め寄せたのです。

双方よく戦ったようですが、三浦氏側は小坪合戦での疲弊が抜けてなかったようで、やむなく城を捨てて海へ逃げることになりました。

本拠を捨てて命を取るというのは、武士としてはかなり思い切った判断です。

最後の意地として、当時89歳という高齢だった三浦義明

「我が生命を頼朝様に捧げ、子孫の繁栄を祈る」

とし、一人で衣笠城に残って討ち死にしたとか……。

三浦氏一門がいかに頼朝へ期待をかけていたかがわかる逸話ですね。

一方、畠山重忠としても、母方の祖父(三浦義明)を死に追いやったのですから、たとえ平家サイドの命令で衣笠城に攻めかかっていたとしても、心中穏やかではなかったでしょう。

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義盛たちは無事海に逃れ、幸運にも北条時政と合流することができました。

時政は石橋山の戦いで敗れた後、散り散りになる直前まで頼朝に同行していたとされますので、当時の状況を詳しく義盛らに伝えたことでしょう。

そして房総半島に着くと、後から到着した頼朝を揃って出迎えました。

態勢を立て直すため、頼朝は房総半島の武士たちに協力を取り付けようと考えます。

義盛は、房総半島で最も有力と見なされた武士の一人・上総広常への使者を命じられました。

大河ドラマでは佐藤浩市さんが演じ、壮絶な死で話題になった武士ですね。

このときの広常は、なかなか挙兵に応じず、腰を上げたときも

「もしも頼朝の器量が凡人程度のものであれば討ち取ってやろう」

と考えながら、頼朝と対面して、野心を改めたといいます。

程なくして、畠山重忠など、石橋山の戦いでは平家方だった武士たちも源氏方に転じるようになりました。

小坪合戦や衣笠城の戦いの記憶も新しかったと思われますが、三浦・和田氏と畠山氏の間で口論や諍い事が起きたという話はありません。

ドラマでは何かと牽制し合う義盛と重忠が、ちょっとしたホッコリシーンになっているのも、そういう背景を汲んでのことでしょうか。

義盛は他の武士たちとともに頼朝に従い、鎌倉へ入った後に【富士川の戦い】で平家軍を打ち破ります。

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また、このころ源義経が頼朝に対面していますが、義盛はその場に居合わせなかったようで、特に記録がありません。

 


佐竹討伐

坂東武者たちの助力を得て、鎌倉入りした頼朝。

さっそく西へ向かって平清盛を討伐……とはならず、まずは関東での足場固めに取り掛かりました。

上総広常や千葉常胤、そして義盛にとっては本家筋である三浦義澄の意見を採用したのです。

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彼らからすれば、

「平家を討つことに依存はないが、その間に自分の領地が脅かされてはたまらない。鎌倉の安全もまだ保証できたとは言い難い」

というところでしょう。至極当然の話です。

一方、頼朝にしてみても、

「ご先祖様と同じように、武士たちの所領を安堵した上で、平家打倒の際には恩賞を与えなければならない」

という事情もあり、彼らの意見を押しのけて西上を急ぐことはできません。

そもそも彼らには、背後を脅かす存在がいました。

常陸の佐竹氏です。

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佐竹氏は平家方、かつ奥州藤原氏との繋がりもあり、武力・財力を備えた大勢力。

上総氏や千葉氏の主戦力が西へ向かえば、途端に攻め込んでくるリスクが大いにあります。

とはいえ、正面からの大戦に挑んで、兵や物資を損耗するのは避けたいところ。

そこで広常が、佐竹氏の力を削ぐための計略を用います。

佐竹氏当主の嫡男・佐竹義政とその弟・秀義と旧知の間柄だったため、会見を申し入れたのです。

当日、兄の義政だけがやって来ると、広常は「人に聞かれたくない話があるので、少し離れよう」と誘い出し、お供の者たちから離れた橋の上で義政を殺害。

佐竹氏の家督は急遽、佐竹秀義が継ぎ、金砂城(かなさじょう)に籠もって防戦態勢に入りました。

源氏軍が攻め寄せるも、なかなか押しきれない。

そこで上総広常が進言します。

「秀義の叔父である佐竹義季をこちら側に引き入れ、佐竹軍の気勢を削ぎましょう。恩賞を約束すれば、きっと降ってくるはずです」

その通りにすると、義季はあっさり源氏軍につきました。

義季が、広常を金砂城の裏手に案内し、広常軍が城内へ呼ばれると、秀義以下の佐竹軍も大いに動揺。

取るものもとりあえずといった様相で、何処かへ逃げ去っていったといいます。

 


壇ノ浦の戦い

佐竹氏の動向に一段落つくと、源氏軍はいったん鎌倉へ戻り、諸々の統治機関を設けました。

義盛が与えられた職が侍所の別当。

ドラマでもちょっとしたシーンになりましたね。

少し補足しますと、侍所は、もともと皇族や公家の屋敷を警備する侍の待機所を指し、鎌倉幕府では警備の他に裁判所の機能も持っていました。

有事の際には御家人の統率も担う大役です。

大河の劇中では、かなり猪武者な義盛ですが、本人の経歴や能力からしても、妥当な人選といえるでしょう。

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この後しばらく、義盛は侍所別当としての仕事に専念していたようで、木曽義仲の討伐や【一ノ谷の戦い】には参加していません。

義盛が再び前線に立つのは元暦元年(1184年)8月。

源範頼を大将とする平家追討軍が出発するときです。

範頼は義盛とよく相談して兵を進めたようですが、不運なことに【養和の飢饉】の影響が抜けきれておらず、兵糧の調達などに苦しみました。

文字通り「腹が減っては戦はできぬ」というもので、遠征軍の士気はどんどん下がっていき、範頼から頼朝へこんな手紙が送られています。

「みな本国を懐かしみ、義盛までもが密かに鎌倉へ帰ろうとする始末です。他の者達については言うまでもありません」

この一件については、義盛は他の将兵と共に頼朝からお叱りを受けています。

しかし、源範頼が大将だったからこそ、士気が下がる程度で済んでいたのかもしれません。

短慮な大将のもとで同じ事態に陥っていたら、平家との一戦前に身内で仲違いしていた可能性もあるでしょう。

兵糧や船の調達ができた翌元暦二年(1185年)、範頼軍は再び動き始め、義盛は北条義時や足利義兼と共に豊後へ渡りました。

このころ九州の武士たちは平家方が多かったため、先にこちらを叩いておき、平家本隊との合流を防ぐのが狙いでした。

足利義兼は、その名の通り源氏の一門です。

源義家の孫である足利義康から始まり、義兼はその息子です。

しかも義兼の母は熱田大宮司家の娘であり、さらに正室は北条時政の娘でもあったので、頼朝とは父・母・妻と三重の縁がありました。

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その割には、あまり目立たない人物ですよね……。

おそらく頼朝が亡くなった2ヶ月後に義兼もこの世を去っていて、その後の鎌倉幕府内での権力闘争に巻き込まれなかったからだと思われます。

また義兼は、足利学校を創設した候補者の一人です。諸説あって定かではありませんが、もしかしたらその点でご存知の方もおられるかもしれません。

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経験豊富で忠義に厚い義盛。

この時点ではまだ北条の若殿だった義時。

源氏一門の義兼。

大将が諸将を立てる源範頼であったことも幸いしてか、豊後の戦いから壇ノ浦に至るまで、彼らの間にトラブルはなかったようです。

そして迎えた壇ノ浦の戦い――義盛個人については『平家物語』の中に逸話があります。

義盛は当初、舟には乗らず、渚から二~三町(約218~327m)離れた平家方に向かって自分の名を記した矢を放ち、

「できるものならこの矢を射返してみせよ」

と挑発しました。

【屋島の戦い】における那須与一の話(扇の的)がそうだったように、”挑発されて黙っているのは武士の名折れ”という価値観の時代です。

当然、平家もそのままにはしておけません。

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平家の大将・平知盛も弓の名手を探し、伊予の武士・仁井親清が義盛の矢を射返してみせたといいます。

挑発してしっぺ返しをくらったのですから、義盛としてはなんともバツが悪い。

怒った義盛は戦場で激しく戦ったという話です。

義盛にとっては、いささかカッコ悪い話であると同時に、平家も武門としての意地を感じる場面ですね。

清盛の時期から平家は貴族化したといわれていますが、武士としての特徴もしっかり持っていたんですね。

ただし、もはや形勢の差はいかんともしがたく、源氏が勝利し、平家は滅亡しました。

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