曽我事件

富士野における仇討ちの場面『曽我物語図会』/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

曽我事件は鎌倉幕府の屋台骨を揺るがしかねない大騒動~仇討ちだけにあらず

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北条時政は何かを企んでいたのか?

『鎌倉殿の13人』では、北条時政とその妻・りく(牧の方)が曽我兄弟の仇討ちに理解を示し、寛大な態度を見せています。

ライバルの比企能員は、時政が失脚するかもしれないとほくそ笑んでいた。

これは北条時政が【曽我事件】の黒幕とする説を参照しているのでしょう。

時政が全ての黒幕とまで言い切れないものの、何らかのメリットを考えていたと思える動きはあります。

伊豆のパワーバランスは危ういものがありました。

頼朝の舅である北条時政が一歩リードしているものの、多士済々。

そこに加わった工藤祐経が意外と侮れない。

確かに彼はドラマでも「腰抜け」と呼ばれ、一条忠頼暗殺の場では怯えていました。

武芸よりも鼓の稽古を欠かさなかったとも語っています。

祐経は都仕込みの今様や音曲が得意でした。

そういう坂東武者からすれば軟弱な存在が、京風だからと頼朝に気に入られている状況は、腹立たしいものがあったのです。

「ならば祐経を始末しちまえよ。仇討ちなら健気だしいいじゃねえか!」

時政がそんな発想の転換をし、そのついでに色々ライバルを潰し、己にとってうまい状況を企む状況はあり得なくもないでしょう。

 


事件にまつわる陰謀と粛清

【曽我事件】はなまじ有名であるため定説が固まっていて、逆に輪郭が掴みにくい事件です。

特に『曽我物語』などは、兄弟の顕彰を目的としており、何をどう信じてよいか難しいものがあります。

一方で『吾妻鏡』をみると、何やら不穏な動きが見えてきます。

そうした状況を一つずつ見てゆきましょう。

・曽我兄弟が強すぎる

『吾妻鏡』によれば、この事件ではかなりの死傷者が出ています。

いくら武勇に優れていたとしても、たった二人の青年がああも多数を相手に殺傷できるとは思えない。

・仇討ちどころか頼朝まで危険に晒している

曽我兄弟の不可解なところは、標的を討ち果たしたあと、源頼朝まで狙っていること。

何かの陰謀があったと考えたほうが辻褄はあいます。

・常陸政変

常陸をめぐり、八田知家と多気義幹が対立。

多気義幹の言い分が退けられ、八田知家が勝利していますが、八田知家がこの狩猟を利用したと考えらるのです。

さらにこの後、多気義幹の弟・下妻弘幹が梟首とされます。北条時政に恨みがあったためとされます。

時政の陰謀に八田知家が関わっていたのかもしれません。

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源範頼、伊豆配流

頼朝の弟である義経は、難がある性格だったとされます。

安徳天皇を水死にまで追い詰め、三種の神器「剣」を紛失という失態もやらかした。

政治的感覚が乏しく、後白河法皇に接近しすぎ、さらには奥州藤原氏とも関わりが深かったために、非業の死も無理ないことだったとされます。

一方、範頼は謙虚であり、その死は不可解とされます。

【曽我事件】で何らかの失態をし、謀反の疑いありとして伊豆へ配流されてしまう。そして修善寺で誅殺されたとされます。

このあと、範頼の誅殺された家人に曽我兄弟の異父弟・原小次郎もいました。

【曽我事件】と範頼の死には何らかの繋がりがあるとされる理由には、このことがあげられます。

・相模の御家人である岡崎義実と大庭景義の出家

範頼の伊豆配流とほぼ時を同じくして、岡崎義実と大庭景義が出家しています。

老齢とはいえ不可解かつ、鎌倉の勘気を被ったと思われる。

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・安田義資と父の義定が梟首となる

事件から間も無く、甲斐源氏一門の出である御家人・安田義資が死刑、梟首(晒し首)とされました。その罪とは、幕府の公式行事である永福寺薬師堂供養の最中、女房に艶書(ラブレター)を送ったこと。

父・義定も叛逆の企てがあるとして梟首とされたのでした。

何かあったことは確かであるものの全貌はわからない。

それが【曽我事件】です。

粛清された源範頼と岡崎義実。

仇討ちに積極的に関わった北条時政。

前後する政変で利益を得た八田知家。

彼らが関わったことは確かなのでしょう。

しかし、それがどこまで意図したものなのか。何が目的だったのか。動機は何か。はっきりと断言はできません。

関係者のいた国の範囲も、伊豆、常陸、相模と実に広範囲にわたっています。

これも当時の不安定な坂東の状況、頼朝の天下草創が固まりきっていない史実を反映しているのでしょう。

安田義資と義定は、甲斐源氏という血筋が悪かったのかもしれません。源氏の血が鎌倉殿となる根拠ならば、減らしたほうが安心と言えばそうなのですから。

 


北条父子免罪の謎

この処分が異常であることは、もう一点あります。

それは北条時政・義時父子も事件に関与しているとみなせるにも関わらず、なんら処分されていないのです。

しかも義時の場合、この事件と前後して、頼朝が気に入っている女房・姫の前に艶書を送り続けていました。

御所の女房は鎌倉殿の資産としての一面もあります。

そう考えると安田義資が罪に問われた理由も理解できなくもないけれど、義時は結末が異なる。

罰せられるどころか、頼朝の仲介で姫の前を妻に迎え、離縁しないよう神に誓約までさせられたのです。

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義弟である義時を気遣う頼朝……そう単純に片付けてよいのでしょうか?

むしろ姫の前と結ばせることで恩を着せながら、逆らえば安田親子の二の舞になると脅す意図もあったのかもしれません。

弱みを握ることで、北条氏に手綱をつけたかったと考えられなくもありません。

この事件で誰が粛清し、されなかったかはわかる。

しかし、動機や狙いは推理するしかありません。

だからこそ、フィクションの出番とも言えます。

想像力を豊かにし、諸説を取りいれ、かつ大胆に展開できる。

「巻狩り」と、「矢口祝い」を映像化するということで、相当の気合いも入っています。

曽我兄弟の仇討ちがこうも人気があり、歌舞伎の定番演目である理由として、その豪華なシチュエーションにもあります。

江戸っ子からすれば目に見える富士山の裾野で展開される。

巻狩りという豪華な行事。

抜群の舞台装置ゆえに、どうしたって盛り上がるから、定番になったのです。

眼の前で展開されるのは血生臭い仇討ちであり、応援していた曽我兄弟は二人とも死んでしまうというバッドエンドです。

それでもとびきり豪華だから、日本人はこのドラマを愛してきました。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
坂井孝一『曽我物語の史実と虚構』(→amazon
坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』(→amazon

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