北畠顕家

北畠顕家/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

北畠顕家~花将軍と呼ばれる文武両道の貴公子は東奔西走しながら21の若さで散る

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尊氏軍を猛追

このように北畠顕家の近辺は順調でした。

しかし建武政権は徐々に先行きが怪しくなっていきます。

建武二年(1335年)7月に北条氏の残党が【中先代の乱】を起こし、その鎮圧にやってきた足利尊氏がなかなか京都に戻らず、後醍醐天皇が不快さを露わにします。

それでも尊氏は上洛せず、さらに乱のドサクサに紛れて鎌倉に預けられていた護良親王を暗殺させていたことがわかり、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏の討伐を命令。

しかし義貞が尊氏に敗れて西に戻り、尊氏がそれを追いかける形で西へ向かいます。

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一報を受けた顕家は、建武二年(1335年)12月に足利尊氏を追撃して東海道を西上しました。

11月付で鎮守府将軍の職が与えられていたので、職責のうちでもありますね。

なお、このときの顕家軍の進軍速度は「20日で600km」とされるものすごいスピードでした。

単純計算一日30kmですので、不可能ではないですが、相当な進軍速度です。なぜ二つ名がつかないのか不思議なほど。

しかも顕家軍の場合は

・道中には足利方の勢力圏がある

・現地で略奪しながらの行軍

・真冬

という、悪条件だらけの上でこの速度です。

超速移動の理由はいくつか考えられており、その一つが東北原産「南部馬」の力でした。

 

「顕家軍の通った後には草一本残らない」

奥州は、古来より名馬の産地――奥州藤原氏の時代に多く繁殖され、一頭の地力もさることながら、換え馬を豊富に用意できたのでしょう。

『太平記』では、後述する二回目の顕家の進軍について「通った後には草一本残らない」と書かれていることから、単に略奪しただけでなく

「南部馬が多かったので、あたり一面の草を食べ尽くされた」

という意味が含まれているのかもしれません。

また、古来より日本では

・馬を去勢しない

→荒っぽい馬が多い

→そのぶんパワーもスピードも出る

→選りすぐりの一頭が「名馬」と呼ばれる

という流れがあったため、顕家軍には気性が荒くて剛健な馬が揃っていたのではないでしょうか。

特に荒い馬だと味方の歩兵まで踏み潰すレベルだったとされ、北条氏の残党狩りが早く進んだのもそれが理由なのでは……という気がしてきてしまいますね。

また、関東~甲信では古い時代から「勅旨牧」「諸国牧」という“税”のために馬を育てる牧場がありました。

顕家は都にいた頃近衛少将を務めており、父の親房も近衛府で務めていた時期があります。

おそらくその中で、各地の牧を取り仕切る馬寮の役人と話すこともあったでしょう。

となると北畠父子が東国の牧場の位置を知っていても不自然ではなく、そこから迅速に替え馬を徴発できたのではないでしょうか。

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日本在来馬は「粗食に耐え」「傾斜地に強い」という特長もあり、さらには陸奥への道が整備されていたことも大きいのでしょう。

源頼朝の奥州藤原氏討伐の後、当時の葛西氏は現代の石巻市あたりに本拠を置いていたと考えられています。

葛西氏は、頼朝がいったん安房に逃げてから房総半島を北上して武蔵に入る際、出迎えたとされる家。

奥州着任後の動向は詳細不明ですが、少なくとも鎌倉から葛西氏本拠までは、ある程度の進軍ルートが維持されていたのかもしれません。

また、石巻から陸奥各地への連絡=街道もそれなりに整備されていたはずです。

じゃないと「いざ鎌倉!」ができませんし。

顕家の陸奥将軍府は前述の通り多賀城・仙台あたりですので、鎌倉や京都からみると、葛西氏の根拠地より手前。

となるとやはり、上方へ続く道は整備されていたでしょう。

また、伊達氏のように鎌倉初期からこの地に根付いていた家もあります。

伊達氏が頼朝からもらった土地は現代の福島県伊達市近辺。

後述しますが、顕家は後に伊達氏の領地内にある霊山城を拠点にしており、このあたりも他と比べて交通事情が良かったと思われます。

仮に数字を盛るとしても、こうした諸々の状況と顕家の指揮能力が良い方向にブーストした結果が「20日で600km」という誰も更新できない記録を生み出したのかもしれません。

すみません、馬の話がいささか膨らみ過ぎてしまいました。

北畠顕家の話へ戻しましょう。

 

京都にて

北畠顕家が西へ向かっている間、新田義貞と足利尊氏が激突しました。

すると、尊氏方に寝返る武士も現れ始め、義貞軍は京都へ敗走。

足利軍も、それを追って京都に入り、後醍醐天皇は京都から坂本へ逃れています。

そこで顕家軍が建武三年(1336年)1月13日に琵琶湖の東へ到着すると、後醍醐天皇は大喜びし、日吉大社で戦勝祈願をしたそうです。

顕家は、主人の義良親王や父の北畠親房と共に後醍醐天皇と再会し、麾下の士気も上げ、京都奪還を目指しました。

新田軍・楠木軍と協力して足利軍と激突。

かなりの損害を与え、九州へ敗走させることに成功すると、同年1月30日に後醍醐天皇が京都に還御し、2月初旬には論功行賞が行われました。

むろん顕家にも恩賞があり、右衛門督と検非違使別当を兼ね、3月には権中納言も与えられ、さらに常陸・下野二国をも賜わっています。

 

奥州再び

延元元年(1336年)3月頃には再び奥州へ向かうよう命じられ、北畠顕家は再び北へ向かいました。

ちなみに同じ頃、尊氏は九州で兵を集めることに成功しており、再起を図る状態。

当時の通信事情ではタイムラグができるのは仕方ないとはいえ、尊氏の首を取れたわけでもないのに、後醍醐天皇は西への備えが弱いまま――安心するのが早すぎであり、顕家軍は奥州への道中、鎌倉で斯波家長軍により関東各地で足止めを食らっていました。

家長は足利方の人で、尊氏が西へ向かった後の鎌倉を統治していたためです。

彼も『逃げ上手の若君』に登場していましたね。

顕家軍が、4月16日に鎌倉近辺の片瀬川で斯波家長らと戦闘していると、同時期に常陸や下野の国人が天皇方から離反。

さらに北関東の瓜連城(茨城県那珂市)が足利方の佐竹氏に落とされ、関東全域で後醍醐天皇方が不利に傾いていきます。

これを受けて顕家軍は鎌倉や常陸を攻略し、4月下旬に宇都宮へ入りました。

厳しい状況ではありましたが、味方についてくれる人もいました。

戦国時代でも登場する相馬氏の多くが足利方につく中、相馬胤平という武士がただ一人、顕家のもとへ馳せ参じたのです。

顕家もこれを評価し、左衛門尉の官職を推挙しています。この「味方には迅速に報いる」あたりが、奥州武士が顕家の支配を受け入れた理由なのでしょう。

その後、顕家は、那須城など周辺の足利方の城を攻略しながら北上を続け、5月末~6月初旬に多賀へ戻りました。

なお、同時期の近畿では【湊川の戦い】が起き、楠木正成が自害しています。

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奥州の事情も変わりつつありました。

顕家が上方で頑張っていた延元元年(1336年)1月には、津軽で岩楯城主・曽我貞光が尊氏に調略されて寝返り、その鎮圧のため南部氏が出兵しています。

さらに、顕家在京中の奥州を任されていた留守氏が内部分裂を起こしていました。

これらをまとめると、顕家の留守中に北関東~奥州における天皇方勢力がかなり減ってしまっていたということになります。

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