北畠顕家

北畠顕家/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

北畠顕家~花将軍と呼ばれる文武両道の貴公子は東奔西走しながら21の若さで散る

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天皇へのガチ説教・北畠顕家上奏文

上奏文は原文が残っておらず、伝わっている内容は醍醐寺に残されている写しによるもので、冒頭が欠けているとされます。

漢文なので現代人にはどうにも馴染みにくいのですが、おおよその内容は以下の通り。

なかなか辛辣な内容で、それも結構な量です。

・九州と東北に優秀な人を置き、山陽や北陸にも南朝方の拠点を作って非常時に備えること

仁徳天皇と醍醐天皇のように、3年間税を免じて民を休ませること

後醍醐天皇も倹約し、ぜいたくしないこと。民に迷惑をかける臨時の行幸などもってのほか

・役人の登用や恩賞は慎重に決めること

・功のない者の土地を没収して忠義ある者に与えること

・武士を簡単に信用して重職につけるべきではない

・朝令暮改をやめてください

・愚か者を身辺から排除してください

そして最後に

「ここまで言って聞き入れていただけないなら、私は辞職して山に入ります」(意訳)

とまで書いています。

かなり事細く、厳しいダメ出しであり、織田信長足利義昭に宛てた「異見十七ヶ条」とタメを張れそうです。

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ちなみに顕家は後醍醐天皇よりも30歳も歳下。

文字通り父子のような年齢差の相手に、ここまでボロクソなことを言われる後醍醐天皇ってどれだけダメ上司なのか……しかも顕家が後醍醐天皇の側にいたのは少年時代の十数年と、1337年に上洛した時だけです。

それ以外は、ずっと奥州や京都までの行軍の中にいたにもかかわらず、ここまで的確かつ辛辣に欠点と改善点、そして民草への慈愛を述べた文章は見事というほかありません。

残念なことに、この文書の原文が後醍醐天皇のもとに届いたかどうかはわからないのですが……その後の後醍醐天皇や南朝を見る限り、いっそ届いていないほうがマシな気もします。

上奏文の写しが作られた理由や、醍醐寺で保管された理由も詳細は不明です。

発見の経緯も、大正九年(1920年)に「反故(書き損じの紙)の中から見つかった」らしいので、書状として丁寧に保管されていたものでもないようで。

中身が中身なだけに、そんな扱いを受けるのは哀しいものがありますね。

 


花将軍の最期

上奏文を送ってから、北畠顕家は最期の戦いに臨みます。

延元三年(1338年)5月22日、和泉の堺浦・石津(大阪府堺市一帯)にて、京都からやってきた高師直・細川顕氏軍と激突。

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この最中に堺から瀬戸内海の水軍が上陸し、これにより混乱した顕家軍は四散してしまい、それでも高師直の首を狙ったものの、果たせません。

顕家は「もはやこれまで」と覚悟、腹を切ったと言われています。

享年21。

あまりにも早い死でした。

南部師行など、ここまで付き従ってきた多くの武将も討死し、顕家軍は総崩れとなりました。

混戦の中でのことだったため、顕家終焉の地は不明であり、現在では阿倍野説や石津説などがあります。

足利尊氏の母・上杉清子の手紙に「顕家の首が届けられた」とあるので、尊氏や直義も首実検したのでしょう。

顕家ほどの人物であれば、首塚なり胴塚なりが作られていても良さそうなものですが、後年に廃絶してしまったのか……。

 


その後の北畠氏

北畠顕家の死後は父の北畠親房が南朝の中心かつ主戦派として動きましたが、はかばかしくない結果に終わっています。

ちなみに織田信長に息子・織田信雄を押し付けられて滅亡した伊勢北畠氏は、顕家の弟・北畠顕能の子孫です。

顕家にも息子・北畠顕成がいたのですが、父に似ず目立たなかったようで、あまり記録が残っていません。

安藤貞季の娘と結婚して青森の浪岡で家を起こし、その後戦国時代まで続いたとされます。

ちなみにその家を滅ぼしたのは津軽為信です。

為信の出自はまだ不明な点が多いものの、南部氏の支流説もあるので、そちらが事実だった場合なんとも因果というか、形容しがたい気分になりますね。

顕成には『太平記』の作者説があるため、これが事実であれば祖父や父に似て文才があったのかもしれません。

その場合は「父親の偉業に対して”草一本残らなかった”なんて表現するか?」とツッコミたくなりますが……太平記は特定の個人が一人で書いたのではなく、複数人の手によるものと考えられているので、その部分は顕家に何らかの意図がある人が書いたのかもしれませんね。

顕家は間違いなく当時最大級の才人であり、それを使いこなせなかった時点で南朝方の末路が決まっていたのではないでしょうか。


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長月 七紀・記

【参考】
横山高治『花将軍北畠顕家』(→amazon
『虚心文集』/国立国会図書館デジタルコレクション(→link
国史大辞典
世界大百科事典
ほか

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