北畠顕家

北畠顕家/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

北畠顕家~花将軍と呼ばれる文武両道の貴公子は東奔西走しながら21の若さで散る

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京都争奪戦

この間、上方では戻ってきた足利方と比叡山に逃げた後醍醐天皇方の間で、8~9月にかけて京都争奪戦が繰り広げられていました。

後醍醐天皇は比叡山の僧兵を戦力に数えようとしたものの、それも失敗。

尊氏は、後醍醐天皇を討死させるまでは考えていなかったようで、休戦が提案され、10月に和睦が成立しました。

条件は、後醍醐天皇の退位と持明院統の豊仁親王が即位することであり、新田義貞など宮方の多くは反対していました。

しかし、後醍醐天皇は新田勢に尊良親王・恒良親王を奉じて北陸ヘ向かうよう命じ、この条件で和睦を受け入れてしまいます。

こうして11月には後醍醐天皇が譲位し、豊仁親王が光明天皇となり、新しい皇太子には後醍醐天皇の皇子・成良親王が立ちました。

一時的には持明院統へ皇位を譲った形ですが、自分の皇子の血筋が残ったことで後醍醐天皇は矛を収めてもおかしくないところでした。

しかし、後醍醐天皇は同年12月下旬に京都を脱出し、吉野へ逃げて自らの退位を否定。

さらに年が明けないうちに奥州の顕家に上洛と京都奪還を命じる使者を立てました。

ですが、奥州の事情は前述の通り。

上洛命令が届く直前の延元二年(1337年)1月、顕家は義良親王・結城宗広とともに多賀の国府から伊達行朝の霊山城に移り、大勢を立て直そうとします。

1月15日から合戦が始まっており、後醍醐天皇からの使者が顕家のもとに到着した頃には、上洛に応じたくても応じられない状況になっていたのです。

しかし2月になると後醍醐天皇だけではなく、越前にいる恒良親王からも上洛の要請が届くわ、3月には上方に残っていた父・親房からも手紙が来るわで、なんとも苦しい立場に追いやられます。

顕家軍の状況は思わしくないまま。

常陸の小田城救援など成功した戦線もあったものの、完勝とはいかず小競り合いが続き、予断を許さない状況が続いていたのです。

3月には北陸で金ヶ崎城が落ち、尊良親王と義貞の子・義顕が自害。

義貞は逃げ延びたものの、すぐに立て直せる状況ではありませんでした。

これで顕家が動かざるを得なくなり、再び西上の途につくことになります。

「逃げ若」での顕家が主役級に描かれているのはこのあたりからです。

 

二度目の上洛

延元二年(1337年)8月、顕家は義良親王を奉じて奥州を出立。

12月8日には小山城を攻略し、直後の13日には利根川で足利方の上杉憲顕らを破ると、25日に鎌倉へ突入して尊氏の嫡子・足利義詮を追いやりました。

鎌倉の戦いでは、以前辛酸を嘗めさせられた斯波家長を自刃させています。

年末年始は鎌倉で過ごし、延元三年(1338年)1月2日に出発すると、7日には伊豆の三島神社で天下泰平の祈願をして、さらに西へ向かいました。

『太平記』では、二回目の上洛における顕家軍の数を

「白河の関を出た時10万騎、東海道を進んでいた時は50万騎」

としていますが、さすがに盛り過ぎです。せいぜい1/10~1/50程度が実数でしょう。

ただでさえ劣勢になり始めていた顕家にそこまでの兵力は用意できませんし、そもそもこの数で行軍するための兵糧を準備するのは不可能です。

「顕家軍の通った後には家一軒草一本残らない」と書かれているのもこのときの行軍についてなのですが、前回よりも兵糧が少なかったからそうせざるを得なかった可能性も高いでしょう。

1月12日に遠江・橋本の地で宗良親王と面会。

宗良親王も後醍醐天皇の皇子であり、彼はこの地で井伊氏を頼り、天皇方を増やすために戦っていました。義良親王にとっては久々の肉親との再会だったと思われます。

次に顕家軍は三河へ向かい、近隣の武士を傘下に加えながら、さらに西へ。

伊勢方面からも「顕家西上」を聞いて兵糧を届けてくる者が現れ始めたとか。

そして1月下旬、美濃で京都からやってきた高師泰軍と、東から追いかけてきた上杉憲顕・桃井直常軍に挟撃されてしまうのですが、見事、青野ヶ原の合戦で勝利します。

ちなみに青野ヶ原は関ヶ原の近所であり、混同されることもあります。

そのまま入京するルートも有りましたが、顕家は2月に入って垂井から伊勢・桑名へ南下しました。

この進路変更の理由ははっきりわかっていません。兵糧が尽きかけていたため、協力者がいる地域を通ろうとしてのことでしょうか。

また、顕家軍に北条時行が加わっていたためとする説もあります。

そのまま京都へ向かうと鎌倉を攻略した=時行にとって家の仇である新田義貞との合流が見えてくるので、それを避けたというものです。

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顕家軍には義貞の子・義興も加わっていたので今更……という気もしますが、義興は鎌倉攻略に加わっていないのでまだ我慢できたにしても、張本人の義貞とはさすがに顔を合わせたくないというのはもっともな話。

顕家にしても、無理に義貞と時行を対面させて連携に支障をきたしたくはなかったでしょうね。

他には間近に迫った足利尊氏との決戦の前に、伊勢神宮で戦勝祈願をしようと思ったとか、あるいはこの頃伊勢にいた顕家の父・親房や弟・顕能らに会って今後のことを話し合うつもりだったとか、いろいろ理由は考えられそうです。

 

尊氏軍を相手に徐々に疲弊し……

伊勢に入ると地元の武士団が物資や兵糧を献じてくれたり、顕家軍に加わったりして、いくらか大勢を立て直せました。

一方で幕府からの討手もやってきており、2月21日まで転戦しながら奈良へ入っています。

奈良でも顕家軍が足利方に勝利し、いったん腰を落ち着けてから改めて京都奪還のため北上を決断しました。

そのころ足利方では、京都に入られる前に顕家軍を討つべく兵を南へ差し向けました。

そして2月28日、顕家軍は般若坂で幕府軍と激突!

敗北を喫してしまうと、この時点で先行きを懸念したのか、顕家は結城宗広に命じて義良親王を吉野へ送り届けさせ、河内へ進みました。

河内は楠木氏の本拠もあり、天皇方が多い土地柄だったからと思われます。

ここでは顕家の弟・北畠顕信が兵を率いて合流してくれたため、兵力は回復できました。

そして河内各所で幕府方に勝利を収めると、5月初旬まで戦況は一進一退、足利方の兵が西日本から散発的にやってきたためその対処に追われ、顕家軍は徐々に疲弊してしまいます。

この頃には覚悟を決めたものか、5月15日に顕家は痛烈な諫奏文(上奏文)を後醍醐天皇に認めています。

今日「北畠顕家上奏文」と呼ばれているものです。

それは一体どんな内容だったのか?

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