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【足利学校】
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持氏は自害 教実は親族もろとも隠遁生活へ
しかし、幕府と鎌倉公方の連絡役を勤めていた柏心周操という僧侶に説得され、立場を一転。憲実は持氏を攻めることに決めます。
結果、持氏は自害し、永享の乱の乱は終わりました。
憲実は持氏の墓前で自害しようとしたほど後悔していました。
山内上杉家の当主を弟の清方に譲り、隠遁しておりますので、覚悟の程は伝わってくるでしょう。
その後、上方で嘉吉の乱(第六代将軍・足利義教暗殺事件)などが起き、幕府からは「お前がシッカリして関東を抑えといてくれないと困るんだよ!」(意訳)とプレッシャをかけられます。
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しかし、公的には復帰しませんでした。
憲実の態度は徹底したもので、自分の子供達も(甥に預けていた次男を除いて)出家させ、決して還俗しないように!と命じているほどです。
自分だけでなく、子供にも権力と関わるな……というのは相当ですよね。
これにより、幕府は上杉清方を正式に関東管領と認めざるを得なくなりました。
しかし、文安元年(1444年)に清方が先に亡くなってさらにゴタゴタしていくことになります……が、そろそろ話を足利学校のほうに戻しましょう。
儒教や学問を学んで良き人間になろう
憲実が足利学校の校則を定めたのは、こうした権力と忠孝の揉め事で、世の中がほとほと嫌になっていたと思われる頃合いです。
それを踏まえて、彼がこの時定めた「学規三条」を見てみましょう。
例によって、意訳でご勘弁ください。
「ここで学んだことや学校内の規則を守ること」
「勉強をサボるなら出て行け」
「生徒は入学以降、僧侶扱いとする」
最後の一つはともかく、他の二つはごくごく当たり前のことですね。
しかし、上記の経緯からすると、憲実は「儒教や学問を正しく学び、身につけ、良い人間になれよ」と学生たちに言いたかったのでは……という気もします。
儒教的に考えれば、持氏の態度や、しでかしたコトはありえないどころの話ではないし、それを止められなかった自分への不甲斐なさもあったでしょう。
学生たちが自分たちの二の轍を踏まないように、改めて諭すつもりだったのでしょうか。
憲実は校長にあたる「能化(のうげ)※江戸時代は庠主(しょうしゅ)」に鎌倉円覚寺の僧・快元を招くなど、良い教育者の招請にも力を注ぎました。
結果、良い教師が集まり、さらに評判を聞きつけて全国から生徒が集まるようになり、それに伴って能化・庠主にも足利や関東だけでなく、さまざまな地方の出身者が就くようになっていきます。
いわく「日本最大の大学デース」
足利学校の学費は無料ながら寮はなく、学生たちは近隣の民家に下宿していたそうです。
また、学校の敷地内に畑や薬草園があり、自分たちで野菜や薬草を育てていたとか。畑仕事をすることで、いくらか体も鍛えられたでしょう。
教育内容としては儒教をベースとし、兵学や医学なども含まれていました。
といっても現代の学校のように先生が授業をするスタイルではなく、自学自習が基本というところが大きく違います。
つまり、足利学校で認められるということは「知識を自ら求めて身につけ、先生が太鼓判を押した」ことを意味したわけです。
そのため、「足利学校出身」は大名家への出仕を目指す者にとって、最高のアピールポイントになりました。
フランシスコ・ザビエルによる記録では、
「日本で最も大きく、最も有名な坂東(関東)の大学」
と記されています。
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ザビエル自身が足利学校を訪れたわけではないので、彼が行った西日本でも少なからず足利学校のことが話題になっていたということでしょうね。
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