足利学校

足利学校の学校門

源平・鎌倉・室町

足利学校が中世戦国の騒乱を生き残り現代に至るまで~上杉憲実の苦心に注目

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家康の信頼を得て庇護されたが……

戦国時代の終盤・小田原征伐の後、庇護者だった長尾氏が滅んだことで、足利学校は一時危機を迎えます。

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しかし、第九代庠主・三要が徳川家康に仕え、信頼を得たことで、徳川家が足利学校の新しい庇護者になってくれました。

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江戸時代中、足利の地は度々領主が変わりましたが、足利学校自体に100石の領地を与えられ、何とかやっていくことができています。

近郊の人々が学ぶ学校として、江戸時代中期までは広く親しまれていたそうです。

しかし、それ以降足利学校で教えられていた易学よりも、新しく伝わってきた朱子学が重んじられたため、時代遅れになってしまいました。

平和が続いたため、兵学が必要なくなったというのも大きかったようです。

その後は学者たちによって、貴重な古書を所蔵した図書館とみなされていました。役割が変わったとはいえ、残らないよりはマシですね。

 


廃校になるも旧・足利藩士らが蔵書や敷地を守る

江戸から明治への激動の中で、足利学校は廃校となりました。

敷地の東半分が小学校に転用され、蔵書も散逸の危機にさらされます。

しかし、旧足利藩士らの努力によって、蔵書や敷地の西半分は地元に返還されました。足利藩は多少優柔不断なところがあったものの、新政府方についたからかもしれません。

明治三十六年(1903年)には栃木県初の公共図書館・足利学校遺蹟図書館として再出発、旧来の蔵書と一般図書を併せ持つ施設となります。

また、その時点で残っていた建物も国の史跡として保護されることになりました。

1980年代には小学校の移転や一般図書の移管が行われ、元の姿に近い形の足利学校が復元されています。

足利学校

今、訪れることができるのは、江戸時代中期の姿を再現したものです。

2015年には「近世日本の教育遺産群 ―学ぶ心・礼節の本源―」の一つとして日本遺産にもなっています。

今のところ、足利学校に限らず日本遺産の知名度は高くありませんが、増やしたり宣伝したりすれば、クールジャパンに繋がったりしませんかね。


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長月 七紀・記

【参考】
足利市HP(→link
国史大辞典
足利学校/wikipedia
上杉憲実/wikipedia

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