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【源頼家】
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徐々に排除されていく老臣たち
源頼家を将軍に落ち着け、いったん体制を落ち着けた北条氏。
次に「13人」の中で敵対的な人物を排除しにかかります。
真っ先に槍玉に挙げられたのは、他の御家人からも評判の悪い梶原景時でした。
彼は少々融通が利かないというか、杓子定規なところがある人。
頼朝からはその“ルールに忠実”なところを評価されていたのですが、頼家の代になると“融通のきかないいけ好かない野郎という評価で固まってしまいます。
結果、時政以外の御家人も景時を憎むようになってしまいました。
なぜ梶原景時は御家人仲間に嫌われた?頭脳派武士が迎えた悲痛な最期
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いつしか景時は、讒言の的にまでなってしまい、なんと66人もの御家人が景時の弾劾状に署名。
ついに頼家へ提出される所まで来てしまいました。
冷静な大江広元がそれを差し止めていたのですが、和田義盛が「貴公は景時ごときを恐れるのか!!」と迫ったため、弾劾状は頼家の手元に届けられます。
頼家がこれを読んでどう思ったのか?
細かな記録はありませんが、いきなり弾劾状の通りにするのではなく、景時を呼び出して「何か言い分はあるか」と尋ねたそうです。
景時は「敵を増やしすぎた」と悟ってか、何も言わずに地元の相模一宮に戻りました。
その後、正式に景時を鎌倉から追放することが決定し、「もう鎌倉ではやっていけない」と考えた景時は、一族を率いて西へ向かおうとします。
知人の公家のツテでも辿って、どこか別の家にでも仕えようとしていたのかもしれません。
しかし幕府から出された軍勢に追いつかれ、駿河で梶原一族は討たれてしまいます。
『吾妻鑑』では「たまたま駿河で景時らを見かけた御家人・吉川友兼と戦闘になった」ということになっているものの、おそらくは待ち伏せだったと思われます。
頼家がこの件をどこまで知っていたか、という点も詳細不明です。
ともかく彼が、幕府草創期以来の重臣を守れる力すら持っていなかったことはうかがえますね。
妻の実家と母の実家がバチバチに対立
そして北条氏が次に標的としたのが、頼家の妻の実家である比企氏です。
順当に行けば、頼家の長子・一幡が将軍を継ぐわけですから、外戚である比企氏の立場が強まるのは当然のこと。
というか、頼朝時代の時政と政子たちがその立場だったのですから、そりゃ対抗馬は潰したいですよね。
ここでどちらかに妥協案が出てきて、もう一方が「まあそのくらいなら」と合意できれば良かったのですが……残念ながら、当時の鎌倉武士にそんな穏便さはありません。
舵取りをすべき頼家も、合議制の件や母からうるさく言われていたことなどから北条氏を敵視し、比企氏につきたがる状態。
こうして以下のような構図が激化。
こうなると、主君に父方の親族がつくかどうかも大きなポイントとなります。
しかし残念なことに、源頼朝の時代に、頼家の叔父である源範頼や源義経は粛清済み。
唯一残っていた阿野全成も、当の頼家に謀反を疑われて建仁三年(1203年)5月に誅殺されてしまっています。
「なんでわざわざ味方になってくれそうな血縁者をブッ殺すんだ?」とツッコミたくなった方もおられるかもしれませんね。
これは当時の「血縁で権力が決まる」=「最大の敵は身内」という価値観が影響しています。
その代に限っては良い対処法とも言えますが、相対的に母方や縁戚の力が強まるわけですから、安定しているとまでは言い難いところ。
頼朝は京育ちでしたので、母方や妻の実家が権力を持つことに違和感を持っていなかったのかもしれませんが……それが成り立つのは基本的には暴力を振るいたがらない公家社会だけのこと。
そんな公家社会の価値観を東国武士のケンカっ早い社会に持ち込んだがために、この後の悲劇へ繋がっていくことになったと思われます。
ちなみに「13人」に含まれていた他の御家人たちはというと、おおむね北条氏寄りです。
文官である大江広元らは中立寄りと言ってよいかもしれませんが、彼らは武士の間に割って入れるような武力がありません。つまりほぼ無力でした。
母の実家北条氏との争いが激化
こうしてきな臭さが強まっていく中、建仁三年(1203年)8月に頼家が重病となり、明日をも知れぬといった状況になりました。
順当に行けば、一幡を元服させて将軍職を継がせるところですけれども、前述の理由により時政が横槍を入れます。
「一幡はまだ幼いので、全国を統治するのは荷が重いだろう。一幡が東国を、弟の千幡(のちの実朝)に西国を統治するという形にしよう」
筋は通っていますが、これでは将来一幡vs千幡の対立が生じかねず、とても問題解決にはなりません。
一幡の外戚として権力を掌握したかった比企氏としては受け入れがたい状態です。
こうした不穏さは一般人にも伝わっていたらしく『吾妻鑑』でも
・将軍の快癒祈願が行われているが効果がない
・各地の御家人が万が一に備えて鎌倉に集まってきている
・そのため鎌倉はたいへん騒がしくなっている
と記されています。
そして同年9月1日、驚くべきことが起きます。
病に倒れて絶望的とされていた頼家が奇跡的に回復し、意識を取り戻したのです。
能員は早速頼家に「時政を討たなければ」と提案。
日頃から祖父たちを煙たく思っていた頼家は、もちろんすぐに承諾しました。
意識が戻ったばかりで朦朧としていた頼家を、能員たちが都合よく丸め込んだ可能性もありますが、『吾妻鏡』では「この話を政子が聞いてしまい、それを時政に報告した」とされています。
そして時政は大江広元に相談した上で、先手を打つことに決めました。
仏像供養の名目で能員を呼び出し、手打ちにするというものです。ザ・陰謀といった感じで、いっそ清々しいほどですね。
このとき能員の一族は
「これは罠です!武装して行かなければ殺されます!!」
と言ったものの、能員が
「それではこちらが疑われる」
と退け、平服で行ったため殺された……とされます。
まあ、確かに仏事に武装していく必要はありませんし、時政に他意がなければ逆に怪しまれますよね。
とはいえ、刺された場合の備えとして、服の下に何か仕込むくらいのことはしたほうが良かったような気がしますが……『鎌倉殿の13人』では佐藤二朗さんがそうしてましたね。
時政は間を置かずに、御家人たちを動かして比企氏の館(現・妙本寺)を攻め、一幡ごと殺してしまいました。
このとき比企氏に味方する御家人はほぼおらず、三浦義村や和田義盛をはじめとした有力武士のほとんどが時政の命で動いています。
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