源頼家

源頼家/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

風呂場で急所を斬られた源頼家|なぜ鎌倉幕府二代将軍は粛清されたのか

2025/07/17

源頼朝と北条政子の間に生まれた男児・源頼家。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では何かとトラブルを起こす二代目鎌倉殿として描かれましたが、史実でも元久元年(1204年)7月18日に、享年23という若さで亡くなっています。

しかも”現職の征夷大将軍がこの若さで亡くなる”という大事件なのに、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には

「今日、頼家殿が亡くなりました。終わり」(超訳)

程度で済まされているのです。

『吾妻鏡』は「北条最高!」というスタンスが一貫していて、不都合なことは削除されているのではないか?という指摘があり、頼家の暗殺もその一つだといわれています。

つまり北条氏=母親・北条政子の実家と仲が悪かったということになるのですが、それにしたってなぜ殺されることになったのか。

源頼家の生涯と共に振り返ってみましょう。

源頼家/wikipediaより引用

 


比企能員の娘・若狭局を妻の一人に迎え

頼家は源頼朝と北条政子の間の子供として、寿永元年(1182年)に生まれました。

正室との間に生まれた男子だったので、誕生直後から跡取りとみなされています。

この時代、エライ身分の家庭では実の両親ではなく乳母とその夫がほとんどの子育てを行います。

頼家には比企能員の妻と、その妹でもある河越重頼の妻(のちの河越尼)、そして梶原景時の妻が乳母を務めました。

彼女たちの夫は全員「鎌倉幕府草創期の重鎮」といえる人々であり、ここからも頼家への嘱望がうかがえますね。

また、頼朝は政子の安産を願って現在も鎌倉に残る「段葛」を作らせたとされています。

祈願の他にも「これから俺の跡継ぎが生まれるから、皆力を合わせるように」という御家人たちへの誘導が含まれていたのかもしれません。

鶴岡八幡宮へと続く段葛

その期待を受けて、頼家は順調に育ちました。

特に武芸に優れ、建久八年(1197年)に従五位上・左近衛少将の官位を受けて、前途洋々といったところ。

正室が誰だったのかはわかっていませんが、少なくとも早いうちに比企能員の娘・若狭局を妻の一人に迎えています。

比企能員の妻が頼家の乳母ですから、乳兄弟にあたる女性を妻にしたという構図ですね。

おそらくこのあたりは、頼朝の意向が強かったものと思われます。

頼朝は戦乱によって父方の後押しをほとんど受けられず、母も保元の乱の前に亡くなっていた&関東から遠すぎて援助を得にくい状況で青少年期を過ごしました。

その中で援助し続けてくれたのが、比企尼とその娘婿たちだったのです。

頼朝としては「かつて世話になった礼として、比企氏は第一の家臣に位置づけたい」と思い、頼家の幼いうちは教育を任せ、長じてからは比企氏の女性を妻にさせたのではないでしょうか。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

頼朝が最も信頼していた一人・平賀義信(信濃源氏)に補佐され、本人も自信を持って「次は俺が幕府をリードしてやるぜ!」と思っていたことでしょう。

しかし、頼家18歳の正治元年(1199年)に頼朝が亡くなると、彼の予想とは違った方向に事態が進み始めます。

 


18歳で鎌倉幕府を背負う

18歳といえば、当時の感覚としては若造とはいえ立派な大人です。

源頼家は当初から後継者として見られていたので、しかるべき教育も受けていたでしょう。

ですので当然、頼家が家督を継ぎ、朝廷からも認められて左近衛中将ののち従三位・左衛門督に任じられています。

しかし、そこで急に前へ出てきたのが北条氏。

「頼家はまだ若くて心配だから、これからはデキる人たち13人の合議制にするわ」(超訳)

そう言い出して、頼家が直接訴訟などを捌くことをやめさせてしまったのです。

おそらく北条時政が「このままだと乳母父の比企能員が最有力者になってしまう」という点を懸念し、まずはジャブとして合議制にしたのでしょう。

北条時政/wikipediaより引用

13人の中には、大江広元など京都出身の文官たちも入っていて、記録をつけたり故事を拾ったりする仕事も評価されていたので悪いことばかりでもないんですけどね。

やはり統治に関しては公家社会のほうが何百年も先輩です。

一方、当時の武士は、政治どころか文字も書けない者が大多数で、しかも血の気が多いので、何か問題が起きればすぐ殺し合いになってしまった。

いつまでもこんな調子で殺りあっていたら、再び公家の時代へ逆戻りしかねません。

そうならないためにも、武士たちは

・文字を覚え

・記録を付ける

ことは広く浸透させる必要があったのです。

もしも時政が「ワシは頼家の祖父なんで、これからは能員殿に代わって後見します!」

などとドストレートに言おうものなら、その場で能員と時政の取っ組み合いが始まり、双方の郎党もおっ始めて大混乱になったことでしょう。

これは大げさな話ではなく、この時代の武士は本当に些細なことで武器を持ち出してきますので……話を頼家に戻しましょう。

 

建仁二年に征夷大将軍へ任じられても

建仁二年(1202年)に源頼家が朝廷から征夷大将軍へ任じられても、合議制は変わらずそのまま。

頼家は実務から遠ざけられ、認可するだけの立ち位置になってしまっていました。

それはそれで「責任を負う」という大変な役目なのですが、若くてやる気の有り余っている頼家にとっては物足りません。

「そっちがその気ならこっちだってやったるわい! 俺の近習(主君の側でいろいろやる人)を通さないと話聞かないからな!!」(超訳)

そうして真っ向から北条氏にケンカを売ったのです。

どっちかというと売ったのが北条氏で、買ったのが頼家ですかね。

この近習の主なメンバーは、

・小笠原長経

・比企時員

・中野能成

という人たちでした。

『吾妻鑑』には

安達景盛が囲っていた京都出身の女性に頼家が横恋慕し、景盛の留守中に将軍御所の近くの家へ移して、自分もそこに住むようになった

なんて話があります。

しかも「景盛が例の女性のことで、頼家様を恨んでいるとか」と頼家に告げ口した者がおり、頼家が「やられる前にやれ!」とばかりに景盛を討たせようとしたので、政子が「なんて軽率な!!」と止めた……というオチがついています。

あまりにも頼家をバカにしすぎというか、もしこれが事実であってもしょーもなさすぎるというか。

 


徐々に排除されていく老臣たち

源頼家を将軍に落ち着け、いったん体制を落ち着けた北条氏。

次に「13人」の中で敵対的な人物を排除しにかかります。

真っ先に槍玉に挙げられたのは、他の御家人からも評判の悪い梶原景時でした。

梶原景時/国立国会図書館蔵

彼は少々融通が利かないというか、杓子定規なところがある人。

頼朝からはその“ルールに忠実”なところを評価されていたのですが、頼家の代になると“融通のきかないいけ好かない野郎という評価で固まってしまいます。

結果、時政以外の御家人も景時を憎むようになってしまいました。

いつしか景時は、讒言の的にまでなってしまい、なんと66人もの御家人が景時の弾劾状に署名。

ついに頼家へ提出される所まで来てしまいました。

冷静な大江広元がそれを差し止めていたのですが、和田義盛が「貴公は景時ごときを恐れるのか!!」と迫ったため、弾劾状は頼家の手元に届けられます。

和田義盛/Wikipediaより引用

頼家がこれを読んでどう思ったのか?

細かな記録はありませんが、いきなり弾劾状の通りにするのではなく、景時を呼び出して「何か言い分はあるか」と尋ねたそうです。

景時は「敵を増やしすぎた」と悟ってか、何も言わずに地元の相模一宮に戻りました。

その後、正式に景時を鎌倉から追放することが決定し、「もう鎌倉ではやっていけない」と考えた景時は、一族を率いて西へ向かおうとします。

知人の公家のツテでも辿って、どこか別の家にでも仕えようとしていたのかもしれません。

しかし幕府から出された軍勢に追いつかれ、駿河で梶原一族は討たれてしまいます。

『吾妻鑑』では「たまたま駿河で景時らを見かけた御家人・吉川友兼と戦闘になった」ということになってはいますが、おそらく待ち伏せされていたのでしょう。

頼家がこの件をどこまで知っていたか、という点も詳細不明です。

ともかく彼が、幕府草創期以来の重臣を守れる力すら持っていなかったことはうかがえますね。

 

妻の実家と母の実家がバチバチに対立

そして北条氏が次に標的としたのが、頼家の妻の実家である比企氏です。

順当に行けば、頼家の長子・一幡が将軍を継ぐわけですから、外戚である比企氏の立場が強まるのは当然のこと。

というか、頼朝時代の時政と政子たちがその立場だったのですから、そりゃ対抗馬は潰したいですよね。

ここでどちらかに妥協案が出てきて、もう一方が「まあそのくらいなら」と合意できれば良かったのですが……残念ながら、当時の鎌倉武士にそんな穏便さはありません。

舵取りをすべき頼家も、合議制の件や母からうるさく言われていたことなどから北条氏を敵視し、比企氏につきたがる状態。

こうして以下のような構図が激化。

将軍頼家+若狭局とその実家比企氏

vs

頼朝未亡人政子・時政・義時ら北条氏

こうなると、主君に父方の親族がつくかどうかも大きなポイントとなります。

しかし残念なことに、源頼朝の時代に、頼家の叔父である源範頼や源義経は粛清済み。

源義経(左)と源範頼/wikipediaより引用

唯一残っていた阿野全成も、当の頼家に謀反を疑われて建仁三年(1203年)5月に誅殺されてしまっています。

「なんでわざわざ味方になってくれそうな血縁者をブッ殺すんだ?」とツッコミたくなった方もおられるかもしれませんね。

これは当時の「血縁で権力が決まる」=「最大の敵は身内」という価値観が影響しています。

その代に限っては良い対処法とも言えますが、相対的に母方や縁戚の力が強まるわけですから、安定しているとまでは言い難いところ。

頼朝は京育ちでしたので、母方や妻の実家が権力を持つことに違和感を持っていなかったのかもしれませんが……それが成り立つのは基本的には暴力を振るいたがらない公家社会だけのこと。

そんな公家社会の価値観を東国武士のケンカっ早い社会に持ち込んだがために、この後の悲劇へ繋がっていくことになったと思われます。

ちなみに「13人」に含まれていた他の御家人たちはというと、おおむね北条氏寄りです。

文官である大江広元らは中立寄りと言ってよいかもしれませんが、彼らは武士の間に割って入れるような武力がありません。つまりほぼ無力でした。

大江広元/Wikipediaより引用

 

母の実家北条氏との争いが激化

こうしてきな臭さが強まっていく中、建仁三年(1203年)8月に頼家が重病となり、明日をも知れぬといった状況になりました。

順当に行けば、一幡を元服させて将軍職を継がせるところですけれども、前述の理由により時政が横槍を入れます。

「一幡はまだ幼いので、全国を統治するのは荷が重いだろう。一幡が東国を、弟の千幡(のちの源実朝)が西国を統治するという形にしよう」

筋は通っていますが、これでは将来一幡vs千幡の対立が生じかねず、とても問題解決にはなりません。

一幡の外戚として権力を掌握したかった比企氏としても受け入れがたい状態です。

こうした不穏さは一般人にも伝わっていたらしく『吾妻鑑』でも

・将軍の快癒祈願が行われているが効果がない

・各地の御家人が万が一に備えて鎌倉に集まってきている

・そのため鎌倉はたいへん騒がしくなっている

と記されています。

そして同年9月1日、驚くべきことが起きます。

病に倒れて絶望的とされていた頼家が奇跡的に回復し、意識を取り戻したのです。

能員は早速頼家に「時政を討たなければ」と提案。

日頃から祖父たちを煙たく思っていた頼家は、もちろんすぐに承諾しました。

意識が戻ったばかりで朦朧としていた頼家を、能員たちが都合よく丸め込んだ可能性もありますが、『吾妻鏡』では「この話を政子が聞いてしまい、それを時政に報告した」とされています。

絵・小久ヒロ

そして時政は大江広元に相談した上で、先手を打つことに決めました。

仏像供養の名目で能員を呼び出し、手打ちにするというものです。ザ・陰謀といった感じで、いっそ清々しいほどですね。

このとき能員の一族は

「これは罠です!武装して行かなければ殺されます!!」

と言ったものの、能員が

「それではこちらが疑われる」

と退け、平服で行ったため殺された……とされます。

まあ、確かに仏事に武装していく必要はありませんし、時政に他意がなければ逆に怪しまれますよね。

とはいえ、刺された場合の備えとして、服の下に何か仕込むくらいのことはしたほうが良かったような気がしますが……『鎌倉殿の13人』では佐藤二朗さんがそうしてましたね。

時政は間を置かずに、御家人たちを動かして比企氏の館(現・妙本寺)を攻め、一幡ごと殺してしまいました。

このとき比企氏に味方する御家人はほぼおらず、三浦義村や和田義盛をはじめとした有力武士のほとんどが時政の命で動いています。

 

二代将軍、非業の死

病床でこの事態を知った源頼家は、当然のことながら激怒。

和田義盛仁田忠常の二人に時政を討つよう命じる文書を出しましたが、義盛は時政にこのことを報告してしまいます。

そして時政から話を聞いた政子によって、頼家は強引に出家させられました。

比企氏が滅んだ数日後、9月7日のことです。

ちなみに忠常は、身の振り方をどうすべきか、迷っている間に殺されてしまっています。排除のスピードがあまりに早すぎて恐ろしいですね。

頼家は出家させられた後、鎌倉を追い出されて伊豆の修善寺へ幽閉。

北条氏の地元に近く、山中であるため、再起を図るのはほぼ不可能な土地に押し込まれたのでした。

叔父の源範頼が幽閉され、最期を迎えた土地でもあります。

源範頼/wikipediaより引用

範頼が亡くなったとき、頼家は11歳になっていましたので、そのことを覚えていたかもしれません。

そして自分の行く末も、薄々悟ったことでしょう。

 

ふぐりを切り落とされて殺された

比企氏の乱の翌年、頼家は修善寺で亡くなりました。享年21。

病死だとされていますが、同時代の史書『愚管抄』には、なんとも恐ろしい事が書かれています。

「北条の兵が入浴中に頼家を襲ったんだけど、とんでもない暴れ方をしたもんだから、首に紐をつけ、男の大事なところ(原文では“ふぐり”)を切り落としてやっと殺したんだってさ」(超訳)

確かに急所中の急所ですが、入浴中に襲ったのなら、背後から刺せば済みそうなんですけどね。あるいは、そうさせなかった頼家の察知能力が凄いのか。

結局、殺されていますのであまり意味はなかったかもしれませんし、そもそも話が伝聞です。

愚管抄』の著者である慈円は伊豆近辺にいたわけではありませんので、伝え聞いた時点で話が盛られていた可能性は否定できないでしょう。

慈円/Wikipediaより引用

おそらく頼家の怪力エピソードと、北条氏のやり方とが結びついてこのような話になり、慈円が書き留めたのではないでしょうか。

この件に限らず、史書や物語は「書かれている通りの出来事があった」というよりは「日頃の言動や当時の世情が結びついていくらか脚色された」と考える必要もありましょう。

 

不幸な最期の源氏将軍3代

源頼家が殺されるまでの一連の流れについて、母の北条政子が息子をかばおうとした気配は見受けられません。

もしかすると、頼家の出家がせめてもの情けだったのかもしれませんね。

そもそも頼家に対する政子の態度は昔から全体的に冷たいとも言える気がします。

後に彼らが強引に後を継がせた三代目・源実朝も暗殺されてしまいますけれど、

源実朝/Wikipediaより引用

そのとき政子は「実朝は唯一残った子供だったのに」と悲嘆していたことが書かれています。

”尼将軍”として女丈夫のイメージが強い政子に母親らしい一面があったことを示す一方で、頼家の死亡時にそうした動きは一切見られません。

たまたま記録が残らなかったのでしょうか。お墓は建ててますけども。

また、頼家が幼いころ初めて鹿を射止めたとき、夫の頼朝が大喜びする横で、政子は

「武士なんだからそのくらいできて当たり前でしょ」

と取り合いませんでした。

その一言をそのまま受け取るか。愛の裏返しと取るか。

今となっては不明ながら、言葉通りに受け止めれば冷淡さとも見えますね(大河ドラマではわざと冷たい態度にしていました)。

ちなみにいわゆる”源氏将軍”は三人とも不幸な死に方をしています。

源頼朝の死因は落馬とされていますが、明確ではありません。

源頼家は上記の通り。

実朝は後々、頼家の遺児である公暁(実朝にとっては甥)に殺されています。

実朝たちに斬りかかる公暁/国立国会図書館蔵

北条氏もその後百年単位で実権を握りますが、短命が多い上、鎌倉時代以降生き残ることはできませんでした。

ついでに言えば幕府そのものも源氏一門の足利氏・新田氏に滅ぼされていますし、後世から見ると一体誰が得をしたのか全くわかりません。

中世のことですから、そこまでロングスパンで物事を見ている人がいなかったのかもしれませんが。


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【参考】
国史大辞典
本郷和人『承久の乱 日本史のターニングポイント (文春新書) 』(→amazon
慈円/大隅和雄『愚管抄 全現代語訳 (講談社学術文庫)』(→amazon
日本史史料研究会/細川重男『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(→amazon
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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