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【西園寺公宗】
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弟の西園寺公重が……
西園寺公宗の賭けは、見事に負けてしまいます。
なぜなら弟の西園寺公重が、この計画を後醍醐天皇側に密告してしまったからです。
なんだか源頼家と比企氏の乱を思い起こしてしまいますね。
“謀議は家族がいないとき”にやらないとダメ、絶対。
その結果、建武二年(1335年)夏、公宗と協力者だった日野資名・氏光父子が捕縛されると、公宗は首謀者として出雲への流罪に決まりました。
天皇の暗殺計画がバレて流罪ですから「意外と軽いよね」と思われるでしょうか。
しかし実際は、後醍醐天皇の側近・名和長年により殺されてしまったといいます。
享年27。なんでも出立時に“手違い”があったとのことで……。
事件直後、関東では北条時行らが【中先代の乱】を起こしているため、
「公宗は時行や、その庇護者だった諏訪氏と連携して暗殺計画を立てた」
とも指摘されたりしますが、定かではありません。
陰謀に関する書面が正式に残ったりしないので、判断に迷うところですよね。
その後の西園寺家
帝殺しの陰謀――そんな計画が発覚して失敗したのですから、ことは西園寺公宗一人では済まされない。
西園寺家はどうなってしまったのか?
と、ここで頑張ったのが、公宗の妻・日野名子でした。
彼女は事件当時、身ごもっていて、夫の死後に息子の西園寺実俊を産んでいます。
公宗が捕まった時点で、西園寺家の家督は一時西園寺公重のものになってしまったのですが、実俊は母に守られて北朝方につき、北山第に住むようになります。
父の陰謀失敗の地に住むというのもなかなかしんどそうですよね。
その話は実俊にどう知らされていたのか……。
さらにその後、西園寺公重が南朝についたため、北朝では「西園寺家の家督は実俊のもの」とみなされます。
そして長じた実俊は順調に出世し、従一位・右大臣まで上り、無事に家を残したのでした。
公家社会では「無能」扱いされていたそうですが、幼い頃に父の薫陶を得られなかったために、作法や学問に疎かったのかもしれません。そう考えるとちょっと可哀相ですね。
西園寺家は、その後も、時折養子を迎えつつ存続し、近代では「最後の元老」として知られる西園寺公望を輩出するにまで至っています。
もちろん現代も存続している旧華族の一員。
もしも実俊がもっと早く生まれていたり、追手に捕まったりしていたら、西園寺家は断絶させられていたかもしれませんね。
西園寺公宗や西園寺家の来し方は、武家とは違う戦いぶりをうかがえるような気がします。
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長月 七紀・記
【参考】
鈴木由美『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢 (中公新書)』(→amazon)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
ほか