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【西園寺公宗】
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中宮大夫となり外戚の地位を狙う
光厳天皇の即位により、宙ぶらりん状態となってしまった後醍醐天皇の皇子たち。
彼らはとりあえず西園寺公宗の屋敷に身を寄せます。
公宗は倒幕騒動そのものについては深く関わっていなかったようで、以降、彼の名は歴史の表舞台からはしばし姿を消し去りました。
次に出てくるのは、鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇が【建武の新政】に取り組み始めた後のことです。
建武の新政はあまりにお粗末「物狂いの沙汰=クレイジー」と公家からもディスられて
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そこで公宗は、中宮大夫を任されました。
当時の中宮・珣子内親王(しゅんし/たまこ ないしんのう)が、公宗の父の姉妹の娘、つまり従姉妹だったのです。
おそらくこれは、関東申次の地位を失って困窮が予測されていた公宗への配慮だったのでしょう。
後醍醐天皇は何かと破天荒な人物ですが、代々の中宮については真摯であり、その血縁の公宗には「中宮の母方としての地位で満足してほしい」という思惑があったと考えられます。
後醍醐天皇と珣子内親王の仲は良好だったため、公宗としても「二人の間に皇子が生まれれば、外戚として権力を強められる!」と期待を抱いていたことでしょう。
珣子内親王の前の中宮も西園寺禧子(きし/さちこ)という人で、公宗の親戚でした。
禧子と後醍醐天皇は宮中には珍しい恋愛結婚に近い形だったそうですので、もしかしたら西園寺家の顔立ちが後醍醐天皇の好みにドンピシャだったのかもしれませんね。
禧子が異母姉・昭訓門院瑛子に仕えていたところ、当時皇太子だった後醍醐天皇(尊治親王)に連れ出されたのが始まりといわれています。
その後も仲睦まじかったらしく、出産の際は後醍醐天皇自らが祈祷したという話もあるほど。
それだけに禧子が元弘三年(1333年)10月に崩御すると、後醍醐天皇は深く嘆き悲しんだとされています。
禧子の崩御から珣子内親王の立后まで数ヶ月しか開いていませんが、それは持明院統とのパワーバランスの調整でもありました。
珣子内親王の父・光厳天皇(譲位済み)へ正式に「上皇」の称号が与えられたり、光厳上皇に後醍醐天皇と禧子の娘である懽子内親王が嫁いだり、皇室内で大事にならないよう配慮されていたようです。
博打に出て負けた公宗
後醍醐天皇は、珣子内親王の中に禧子の面影を見つけたのか、夫婦関係は順調でした。
立后の翌々年には皇女に恵まれますが、これは西園寺公宗にとっては悲報となってしまいます。
もしここで皇子が生まれていれば、公宗は皇子を庇護し、後見人として関東申次時代よりも権勢を振るえる可能性があったのですが、皇女ではそれは望めない。
将来的には、持明院統・大覚寺統双方の血を引く天皇が登場することにもなり、歴史的な出来事になるはずでした。
いずれにせよ公宗が望みを保つための選択肢は多くありません。
・後醍醐天皇と珣子内親王の間に再び子供が恵まれる
・皇女を持明院統の皇子に嫁がせて新たな皇子誕生に期待をかける
しかし、現実にそこまで待てませんでした。
公宗は「我が家を再び興隆させるためには、北条氏に味方して幕府を再興させる他ない!」と思い詰め、2つの“賭け”に出ます。
まず1つ目は、最後の執権・北条高時の弟である泰時(時興)を匿ったこと。
当時は北条氏の残党狩りが盛んに行われていたので、これだけでもかなりの博打でした。
この辺は漫画『逃げ上手の若君』でも描かれていましたね。泰時は逃げた後いったん出家して還俗し、「時興」と名前を変えていたのですが、現代では泰時のままで扱われることが多いようです。
そしてもう1つの賭けが、後醍醐天皇の暗殺計画でした。
後醍醐天皇の何がどう悪かった?そしてドタバタの南北朝動乱始まる
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別荘の北山第に後醍醐天皇を招いて殺し、先々代である後伏見法皇の皇子(後の光厳天皇/母が西園寺寧子=公宗のおば)を即位させる――と、サラッと記しましたが、とにかく危険過ぎる賭けでありますね。
で、結果はどうなったのか?
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