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【北条長時】
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長時もまたご多分に漏れず30代半ばで……
四代将軍・藤原頼経や、五代将軍・藤原頼嗣が同じ康元元年(1256年)に京で亡くなってますが、まぁ、長時は関与してないでしょう。
将軍である宗尊親王との逸話も特にないのですが、長時は勅撰集にも採られているほどの武家歌人なので、親王から和歌の手ほどきを受けたのかもしれません。
あるいは、和歌を通して良好な関係を築いた、という可能性もありますね。長時は京都育ちですし。
また、弘長元年(1261年)の正月に宗尊親王が歌会始めを行った際、長時も参加していました。
並以上に良い関係だったとみていいのではないでしょうか。
宗尊親王は後に京都に送り返されていますが、それは長時死後の話ですので、やはり関係はなさそうです。
しかし、やはり執権の激務のためか、文応元年(1260年)末あたりから、長時は体調を崩し始めていました。
このときまだ満30歳。
ちなみに、この頃も先代執権・時頼は存命ですので、実権のほとんどは時頼でした。
なんだか「激務+ストレス故の体調不良なのでは……?(´・ω・`)」と思えてしまいますね。
時頼が亡くなったのは弘長三年(1263年)11月で、長時自身が亡くなったのは文永元年(1264年)8月。
享年35。
ということは、長時が実権を持っていたのは最晩年の9ヶ月程度です。
執権の座に就いていたのは約8年間ですから、およそ7年の間、目上とも周囲ともトラブルを起こさなかった……というのは、地味にスゴイ話なんじゃないでしょうか。
上記の通り、鎌倉幕府って年間行事みたいなペースで何らかの事件が起きてますしね。
尊氏の正室が長時のひ孫
長時が誠実に職務に忠実だったためなのか。
彼の子孫たちもその後、比較的早く出世しました。
鎌倉幕府最後の執権・北条守時は彼のひ孫にあたります。
守時は幕府が倒れた際に自刃しましたが、別の形で長時の血筋は残ります。
足利尊氏の正室・赤橋登子が、長時のひ孫なのです。
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尊氏と登子の間の男系子孫は、室町幕府五代将軍・足利義量、そして第五代古河公方・足利義氏まで続きました。
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さらに、義氏の娘である氏姫を通じて、江戸時代には喜連川藩が成立し、明治維新まで大名として存続しています。
この系統は明治時代になってからも華族として残り、戦後だけでなく現在に至っています。
実に800年近くの間、続いていることになりますね。凄すぎ。
もちろん、その時代ごとの当主や親類縁者の人々が努力を重ね、家を存続させることができた点は疑いようもありません。
が、それができたのも、長時の人柄が血に乗って受け継がれていったからなのかもしれません。
穏やかな人物は目先の利益を逸しがちな世の中ですが、超ロングスパンの歴史で考えてみると、そうとも限らないものですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
北条長時/wikipedia