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【三浦義明】
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孫がジーチャンを追い詰める
因果なことに畠山重忠は、三浦義明の娘の子供、つまり孫でした。
このころ重忠は、父である畠山重能(義明からすると娘婿)が京で仕事をしており、半ば清盛に人質として取られたようなものでした。
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立場上、致し方ないとはいえ、そのため「孫(重忠)がジーチャン(義明)を殺しに来る」という凄まじい構図になってしまったのです。
実は、畠山重忠と三浦義明が衣笠城で戦う前にも、両軍の間では一悶着ありました。
ドラマでも描かれていたように、石橋山の戦場付近で偶然出会ってしまった両軍は、当初「身内での戦いは避けよう」と決めたのですが、そこへ事情を知らぬ和田義盛らの軍勢が攻撃を仕掛け、あれよあれよと戦闘が勃発していたのです。
整理しておきますと。
三浦義明・三浦義澄・三浦義村with和田義盛
vs
畠山重忠
という構図ですね。
さらにややこしいのですが、畠山重忠と三浦義村と和田義盛は、祖父の三浦義明を通じて従兄弟関係です。
簡単な系図を以下に記しておきましょう。
三浦義明を頂点にして、ドラマでも有力な武士が名を連ねていますよね。
ともかく頼朝を中心に、運命の歯車が狂い始めてしまった、親戚同士の畠山と三浦。
両軍の間で衣笠城合戦が始まります。
城にこもっていた三浦軍は、次第に押されてゆき、もはやこれまで……と覚悟を決めた義明は、嫡子・三浦義澄や孫の三浦義村に後事を託して、彼らを城から落ち延びさせます。
そして89歳という老体で最期まで戦い抜き、討死したのでした。
一方で「老齢で足手まといだから置いていかれた」という、ちょっと現実的であり、哀しい見方もあったりします。
いずれにせよ、敵が畠山重忠だったのは、結果的に孫の武名を上げることでもあり、武士として本望だったかもしれません。
息子はその後、鎌倉軍で活躍
三浦親子はその後、頼朝に仕えて活躍をします。
源義経の逆落としで有名な【一ノ谷の戦い】や、平家の終焉である【壇ノ浦の戦い】、そして奥州藤原氏を滅ぼした【奥州合戦】にも従軍。
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頼朝死後の二代将軍・源頼家の重臣として十三人のメンバーにも選出されました。
畠山重忠も衣笠城合戦から程なくして味方となっており、その後、活躍を続けます。
これなら義明も浮かばれたでしょう。
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もし源氏将軍がもう少し続いていたら、義明と義澄は二代に渡る忠臣としてもっと知られていたのかもしれません。
一応、平家物語の異本『源平盛衰記』に登場していて、江戸時代には挿絵にも描かれているのですが、
パッと見て源氏方か平家方かわからないせいもあってか、知名度はイマイチなんですよね。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、残念ながら名前だけ登場するパターンでした。
ただ、昨今はゲームなどでもシニアキャラが必ずいますし、今後、源平時代を扱った作品が出てきたときにはぜひ登場してもらいたいものです。
最期まで熱く戦い抜いた老将として人気が出ても良いのではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
三浦義明/wikipedia