読んで字のごとく、教師の権利や子供が教育を受ける権利についての認識を広めるのが目的だとか。
最近は、日常業務に加えて、部活動やその他行事のため過酷になっている教師の労働環境改善も話題に上るようになってきましたが、こういう機会に議論してみるのは一手でありますね。
というわけで、及ばずながら今回は教師と教育の歴史を見てみたいと思います。
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最初に意義を書き記したのは聖徳太子か
「教育がいつ・どこから始まったのか」
これをキッチリと線引するのは非常に難しいことです。
親が子供に何かを教えることはごく当たり前のことですし、それは古代社会でも同じだったでしょう。
それでも敢えて記録の面から教育の歴史を見てみますと、最初に何らかの意義を書き残したのは、聖徳太子だと考えられています。
仏教的な「平等」の観念から、全ての人に教育を受ける権利があると考えたようです。
彼らしい概念ですね。
その後、大宝元年(701年)に定められた大宝律令で、都に「大学寮」が設置。
当初は儒教を教える「明経道」が中心でしたが、漢文の地位が向上して新たに「紀伝道」が作られました。
他にも医師を要請する「典薬寮(てんやくりょう)」など、それぞれの分野に特化した学問所+官僚養成機関が増えていきます。
典薬寮では、養老六年(722年)に「女医博士」という役職も設けられました。
といっても、この当時の“女医”は”女性の医師”ではなく、“女性特有の状態を診る医師”、つまり産科医のことでした。
おそらく神道で出産時を含めた“血の穢れ”を避けるため、同じ女性に任されるようになったのでしょう。
宗教的な理由があるにせよ、女性の地位が低いとも限らなかった一例と考えることもできます。
平安時代には大学寮の教師が世襲で受け継がれていく
「寮」の字がつくのは、当時の大学が全寮制のようなものだったからです。
次第に、有力な貴族が一族の若者をまとめて同じ寮に入れるなどして派閥化していきました。
現在の学閥のようなものでしょうか。
人間のやることは今も昔も変わりませんね。
また、菅原氏などは自分の屋敷に私的な教育の場を作るようになり、私立学校の元にもなりました。
平安時代からは大学寮の教師がほぼ世襲で固定されるようになります。
さらに、安元三年(1177年)に大学寮が火災で焼失した上、政治的にも再建できる状況ではなかったため、公的な学校や教育の場が失われてしまいました。
当時は平家全盛期で、この年は【鹿ヶ谷の陰謀があった年=平家に皆嫌気が指していた頃】ですから、若い世代の将来という長期的な視点を持てる人がほとんどいなかったのでしょう。
平家が滅亡して鎌倉時代が始まってもそれは同じで、中央政府による学校よりは、寺院や武家が学校の代わりになったり、新たに学校を作ったりしました。
五山文学や足利学校など、教科書でもお馴染みのあの辺の話です。
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それに伴って、僧侶が教師として庶民を教えたり、武家に呼ばれて講義をするといった場面も多くなったと思われます。
二昔くらい前まで「教師は聖職」と言う人たちがいましたが、歴史的経緯からすると「教師は聖なる職務である」よりも、「聖職者が教師を兼ねていた」というのが正確ですかね。
この傾向は戦国時代まで続き、日本を訪れた西洋人たちも、高野山や比叡山、そして足利学校が日本の大学であると記しています。
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