ウィリアム・アダムス/wikipediaより引用

イギリス 週刊武春 江戸時代

ウィリアム・アダムス(三浦按針)の来日は超命がけ!家康はどう対応した?

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16世紀末、イギリス。
シェイクスピアの演劇が人気を博していた、エリザベス一世の治世のころ、船乗りたちは冒険に出て成功を収めることを夢見ていました。

彼らの目指した目的地のひとつが、極東・日本です。

当時イエズス会の宣教師はじめ、カトリック国の人々は日本に上陸していました。

しかし、イギリスやオランダといったプロテスタント国の者にとって、日本は未踏の地。

好奇心と豊かな技術を備えた船乗りのウィリアム・アダムスにとって、日本への冒険を断る理由はありませんでした。愛する妻と二人の子と別れる辛さも、彼の冒険心と好奇心には勝てません。

1598年、アダムスは気力も体力も充実した34歳の壮年期でした。

オランダ人の船乗り仲間から日本へ誘われた彼は、これを快諾すると五隻からなる船団に乗り込み、サンタ・マリア島を出立。アフリカ大陸から南米大陸を経由し、さらに太平洋を横切って日本へやってきます。

地球を半周する船旅は想像以上に過酷であり、目的地に着く頃、五隻いた船団はアダムスが乗るリーフデ号だけになっていました。

手前・右の船がリーフデ号/wikipediaより引用

 

1600年4月の日本といえば?

たった一隻残ったリーフデ号にしたって、船も人もボロボロでした。

1600年4月、豊後国大分に漂着したときには、110名いた乗組員が24名にまで減っており、その大半は重病で身動きできないような状態。
親切な住民に介抱されたにも関わらず、彼らは次々と斃れてゆき、船長すらろくに動くことはできません。

指揮能力とそれを発揮するための健康が保たれているのは、アダムス一人でした。

『何故これほどまでに、異国への旅路で苦しまねばならないのか』
アダムスは悩んだに違いありません。
そして彼は上陸した国の事情を知るにつれ、何か重大な危機と歴史の変動が迫っていることに気づくのでした。

西暦1600年4月、すなわち慶長5年。
豊臣秀吉によるバテレン追放令から3年。
そして、天下分け目の関ヶ原まで半年もない。アダムスが日本に降り立ったのは、まさにそのような時期でした。

 

家康にとっては最高のタイミングで来日

異国船漂着の報告を耳にした徳川家康は、是非ともその船長らに面会したいと考えました。

しかし、イエズス会の宣教師たちは激昂し、こう主張します。

「オランダ人、イギリス人は真の信仰にとって敵です。あの国の連中は海賊と盗賊ばかり! あんな悪党どもは処刑すべきです!」

そもそもイエズス会の連中たちが、海を越え、わざわざ極東までやって来たのは、宗教改革の結果、カトリックが劣勢になりつつあるからでした。

しかも当時のイギリスは、エリザベス女王が公然と海賊を支援していて、敵国スペイン船を撃沈してはその積み荷を奪い荒稼ぎをしていたのです。イギリス人はエリザベス一世を「妖精の女王」にも譬えましたが、敵国にとっては憎たらしい「海賊の女王」にほかなりません。

『まさかこんな極東の地で、イギリス人の海賊野郎(アダムスは海賊ではなく船乗りですが)に出会うとは! ちくしょうめ!』
宣教師が憤激したとしても無理のないところなのです。

しかし、家康は彼らの反応を見て、かえって思うところがありました。
『今回、漂着した連中は、布教目当ての者とは違うようだ』
処刑すべきだという意見を無視した家康は、とりあえずアダムス本人に話を聞くことにしました。

フランシスコ・ザビエル/Wikipediaより引用

 

ついに面会 出迎えた家康は上機嫌で好意的だった

同年5月、漂着からおよそ一ヶ月後。
アダムスは家康との面会を前にして、処刑されるのではないかと緊張していました。

場所は絢爛豪華そのものの大坂城です。
アダムスを出迎えた家康は上機嫌で、好意的でした。

家康の問いに対し、アダムスは率直に答えていきます。

例えば彼らの船が海賊船ではないかと疑っていた家康は、武器の有無について尋ねました。
これに対し、「火縄銃、大砲、砲弾、火薬が積載されている」という返答が来て、家康は大変喜びます。

なぜ喜んだか?
説明するまでもないでしょう。
強大な敵を相手に戦いが起きそうな徳川方にとって、このタイミングで異国の新兵器を乗せた船が漂着する……まさに吉兆、天からの恵みに思えたはずです。

もうひとつ、アダムスは家康の悩みを解決することになりました。

家康は広く貿易をし、強大な武器や富を手に入れたいと望んでいました。
しかしポルトガル相手では、布教とセットで貿易するよう相手が要求してきます。これに対し、アダムスが言うには、彼の祖国は貿易だけを望んでいるというのです。

アダムスは、家康にとって幸運を運んで来た男でした。

実際、大坂の陣ではイギリスから購入したカルバリン砲が使用され、大坂城へと撃ち込まれた・画像はフランス製のカルバリン砲/photo by PHGCOM wikipediaより引用

 

侍に取り立て、名前も与え、領地も屋敷も取り揃える

家康はアダムスを重用し、大型船の建造を命じました。

船大工の家出身であるアダムスはその命令をこなし、120トンの船を作り上げ、篤い信任を得ることに成功します。
それでもアダムスは祖国に残した妻子が気になって仕方ありません。家康はアダムス帰国を阻止するためにも、様々な手を尽くします。

アダムスは侍としての身分、妻、逸見村という領地から屋敷まで与えられ、領民に慕われる領主となりました。
さらにアダムスは、自らの商才を元に商売を始め、成功をおさめます。イエズス会の人々にとって、家康に取り入るプロテスタントのアダムスは厄介な存在でした。

1608年、ローマ法王パウロ五世は、それまでポルトガルに限定していた布教を、スペインに対しても与えます。
こうして日本は、ポルトガルだけではなく、スペイン、そしてオランダ、さらにはアダムスの母国であるイギリスからも「魅力ある布教地、あるいは交易地」として見られるようになりました。

こうなってくると、俄然アダムスの役目は大きくなるのです。

家康にとって、交易相手としてはどれも魅力的ではあります。しかし、同時に大きな悩みでもありました。
そんな家康に対し、アダムスはテキパキと、そしてプロテスタントとしてアドバイスします。

「スペイン人の信仰はイギリス人の私としては全く受け入れようがありません。我が祖国でもイエズス会は布教を禁止しているんですよ。私たちイギリス人は信仰を理由に他人を攻撃しませんが、あの連中ときたら……」

アダムスとしてはイギリス人として、またプロテスタントとしてもそう思っていたのでしょうが、そもそも彼を処刑しろだの、ろくでもない海賊だの、先に家康に吹き込もうとしたのはカトリック側でした。
アダムスにすれば「仕返しだ!」という気持ちもあったかもしれません。

家康もしまいにはうんざりしてきました。
「なんで日本でまで、カトリックとプロテスタントが対立するんだよ……」

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