こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【三浦按針(ウィリアム・アダムス)】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
ついに面会 出迎えた家康は上機嫌で好意的だった
同年5月、漂着からおよそ一ヶ月後。
アダムスは家康との面会を前にして、処刑されるのではないかと緊張していました。
場所は絢爛豪華そのものの大坂城です。アダムスを出迎えた家康は上機嫌で、好意的でした。
徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年
続きを見る
家康の問いに対し、アダムスは率直に答えていきます。
例えば彼らの船が海賊船ではないかと疑っていた家康は、武器の有無について尋ねました。
これに対し「火縄銃、大砲、砲弾、火薬が積載されている」という返答が来て、家康は大変喜びます。
なぜ喜んだか?
説明するまでもないでしょう。
強大な敵(西軍)を相手に戦いが起きそうな徳川方にとって、このタイミングで異国の新兵器を乗せた船が漂着する……まさに吉兆、天からの恵みに思えたはずです。
大坂夏の陣の全貌がわかる各武将の戦闘まとめ~幸村や又兵衛の散り際とは?
続きを見る
もうひとつ、アダムスは家康の悩みを解決することになりました。
家康は広く貿易をし、強大な武器や富を手に入れたいと望んでいました。
しかしポルトガル相手では、布教とセットで貿易するよう相手が要求してきます。
これに対し、アダムスが言うには、彼の祖国は貿易だけを望んでいるというのです。
アダムスは、家康にとって幸運を運んで来た男でした。
侍に取り立て、名前も与え、領地も屋敷も取り揃える
家康はアダムスを重用し、大型船の建造を命じました。
船大工の家出身であるアダムスはその命令をこなし、120トンの船を作り上げ、篤い信任を得ることに成功します。
それでもアダムスは祖国に残した妻子が気になって仕方ありません。
家康はアダムス帰国を阻止するためにも、様々な手を尽くします。
アダムスは侍としての身分、妻、逸見村という領地から屋敷まで与えられ、領民に慕われる領主となりました。
さらにアダムスは、自らの商才を元に商売を始め、成功をおさめます。イエズス会の人々にとって、家康に取り入るプロテスタントのアダムスは厄介な存在でした。
1608年、ローマ法王パウロ五世は、それまでポルトガルに限定していた布教を、スペインに対しても与えます。
こうして日本は、ポルトガルだけではなく、スペイン、そしてオランダ、さらにはアダムスの母国であるイギリスからも「魅力ある布教地、あるいは交易地」として見られるようになりました。
こうなってくると、俄然アダムスの役目は大きくなる。家康にとって、交易相手としてはどれも魅力的であるのです。
しかし、同時に大きな悩みでもありました。
家康に対し、アダムスはテキパキと、そしてプロテスタントとしてアドバイスします。
「スペイン人の信仰はイギリス人の私としては全く受け入れようがありません。我が祖国でもイエズス会は布教を禁止しているんですよ。私たちイギリス人は信仰を理由に他人を攻撃しませんが、あの連中ときたら……」
アダムスとしてはイギリス人として、またプロテスタントとしてもそう思っていたのでしょう。
そもそもアダムスを処刑しろだの、ろくでもない海賊だの、先に家康に吹き込もうとしたのはカトリック側です。アダムスにすれば「仕返しだ!」という気持ちもあったかもしれません。
家康もしまいにはうんざりしてきました。
「日本に来てまで、なぜカトリックとプロテスタントは対立するのだ……」
※続きは【次のページへ】をclick!