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ナポレオン3世の生涯
ジョゼフィーヌ不妊問題から始めねばなりません。
これまた、ちょいとややこしいのです。
実は甥っ子です
なかなか夫との子ができずにモヤモヤしていたジョゼフィーヌ。
そんな彼女と夫ナポレオン1世が下した決断は、こんなものでした。
「ジョゼフィーヌの娘・オルスタンスと、ナポレオンの弟・ルイ(のちのオランダ王)を結婚させる。その間にデキた子を後継者にしよう」
ナポレオンは、義理の子となったウジューヌとオルスタンスを可愛がっていました。
二人ともジョゼフィーヌの子であり、ウジューヌは誠実かつ優秀。
オルスタンスは、イケメンでもなく暗いルイと結婚するなんて嫌だなぁ、と乗り気ではありません。
しかし、母と義父のためならばと妥協して結婚します。
この夫妻の間の三男が、ルイ・ナポレオン、のちのナポレオン3世なのです。
ナポレオン弟の子供ですから、甥っ子になりますね。
彼は1808年生まれ。
ナポレオン2世とは違い、第一帝政全盛期にあたりました。
ただし、物心ついた頃にはもう下り坂。
幼くして、伯父であるナポレオンは没落し、ボナパルト一族はヨーロッパ全土に散り散りとなり、苦難の生活を送りました。
金をめぐる生々しい争いもあり、絶縁したきょうだいもいるほどです。
「今時ナポレオンとかバカじゃないの」
そんな苦難の中、オルスタンスは、ナポレオン3世を厳しく鍛えて育てます。
苦しい中でも、フランス皇族であることを忘れるなと叱咤激励したのです。
家庭教師ル・バの薫陶もあり、ナポレオン3世は学問的に洗練性のある青年へと成長してゆきます。
折しも1830年代は「七月革命」以来、煮えたぎる時代です。
ポスト・ナポレオン待望論もありました。
「よーし、これからは私の時代だ!」
そうイキり立ったのか。
ナポレオン3世は1836年のストラスブール、1840年のブローニュで、クーデターを起こします。
が、二度とも失敗。
フランスの世論は、そんなナポレオン3世に冷ややかでした。
「冒険家」
「バカ」
「まともじゃない。醜悪」
「自分を英雄だと勘違いしている、悲惨なまでに笑えるアホ」
無茶苦茶に叩かれ、ネタ扱いされてしまったのです。
しかし、何事にもチャンスはあります。
クーデター犯としてアムという街にある監獄に収監された彼は、時間を得ます。
囚人として、メキメキと学問に励んだのです。
そして1846年、ナポレオン3世は石工の紛争で脱獄を果たします。
行き先はイギリスでした。
ナポレオン待望論というビッグウェーブ
このころ、ナポレオン待望論が噴出。
1840年、セントヘレナ島からナポレオンの遺骸が戻ってきます。
古参兵はじめ、多くのフランス国民が感動を示しました。
1848年には「二月革命」勃発し、ルイ・フィリップが王座を追われます。
ボナパルト家の追放令も解かれ、革命後の総選挙では一族の中から当選者も出てきたほどです。
この選挙では、立候補をしていないナポレオン3世に投票する者もいたほどですから、もう絶好のチャンスじゃないですか!
こんな中でナポレオン3世が同年の大統領選挙に出馬すると、ポッと出であるにも関わらず、当選を果たしたのです!
クーデターで第二帝政開始するも
ナポレオン3世は、そのまま大統領でおとなしくしていなかったからこそ、第二帝政となるわけです。
共和国憲法改正。
抵抗勢力との対決。
そういった足固めをしながら、1851年にクーデターを起こし勝利をおさめます。
ところが、これは当時から突っ込まれていたものですが、ネタ扱いをされていました
実際のところ、ナポレオン3世もそこまで乗り気ではなく、側近がグイグイ押したようです。
ネタ扱いされてしまう、その理由は?
・二度目は喜劇だ
「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」
カール・マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール』で簡潔にこう言い切りました。
確かにネタ感があります。
・バカだから
身も蓋もありませんが、ナポレオン3世は当時から「あのバカ」扱いでした。
芸術的なセンスはなかなかのものですが、政治、軍事がダメでして……。
・偉大なのは本人じゃない、伯父だろ
これも身も蓋もありませんが、そんなバカでも皇帝になれたのは、「ナポレオン」という名前だけで浮かれる連中を騙したからだろう、という見方が定着していました。
地球の裏側の江戸期日本人だって浮かれるほど、ナポレオンは偉大ですからねぇ。
このあたり、なかなか面白いものも見えてきます。
フランス革命を経て、実施されるようになった大統領選挙。
しかし、蓋を開けてみればノリや懐古趣味だけで、立候補者の資質を考えない投票層がいると実証されてしまったとも言えるわけです。
ポピュリズムの弊害が叫ばれる現在ですが、実はその兆しはこのころにはあったのでしょう。
全てがネタになる
皇帝として君臨したナポレオン3世には、功績がなかったわけではありません。
現在に至るまで残されたパリの街並みはじめ、都市インフラ整備といった功績もあります。
パリのインフラを整備したのに!
ただ……そんなものすら、なにもかもネタとしての扱いが消してしまいます。
軍事的才能もないくせに、戦争をやりまくる。
無能のくせに、伯父を真似した政策で失敗。
普仏戦争での大敗。
そして1870年の退位、亡命――1世の場合は悲劇として扱われたことが、ことごとくネタ、喜劇にされてしまうのです。
そういう意味では、極めて不運な人物と言えます。
ただ、皇帝の誇りを保ち続ける人がいないわけでもありません。
フランスを代表する、世界史上でも最古参と言える化粧品メーカー「ゲラン」。
このゲランの香水「オーインペリアル」は、ナポレオン3世の皇后であるウジェニーに献上したものとされています。
「どや! 皇帝一族が好んだんだ!」
そういう誇りがあるんですね。
ネタだけじゃないんです。
ナポレオン3世も、頑張ったのです。
なお、日本の幕末期、フランスはライバルであるイギリスに対抗し、幕府に接近しました。
そのときのナポレオンがこの3世です。
幕府のメンツは
「えっえっえっ! あのナポレオンのご子孫がフランスを支配しているんですか!?」
と、ハイテンションになり、この反応には、ナポレオン3世も嬉しかったことでしょう。
徳川慶喜は、ナポレオン3世から贈られた軍服を身につけております
現代日本人も、JFKことケネディ大統領の長女キャロライン・ケネディ氏が駐日大使となった際には騒いだものです。
そういうのと似た感覚ではないでしょうか。
ちなみにナポレオンブームはしばらく続き、それが萎んでしまうのは、普仏戦争の後からです。
明治政府は、幕末以来政府を支援してきたイギリス、そしてフランスを破ったプロイセンを見習おうとシフトしていったのでした。
話をナポレオンに戻しましょう。
次は4世です。
ナポレオン4世の生涯
皇帝ナポレオンの子でありながら、悲劇的な夭折を迎える貴公子――。
ナポレオン2世の場合、まさしくその通りで、4世もそうなのでした。
イギリスで生きる貴公子
ナポレオン2世と4世は、よく似た青少年期を送ります。
父唯一の後継者として、1856年に誕生。
溺愛を受け、皇太子としての教育を受けます。実際、気品溢れる身のこなしは、まさに貴公子そのものでした。
普仏戦争で従軍し、大敗すると亡命生活へ。
行き先はイギリスでした。
カムデン・プレイスに一家は落ち着くと、苦労しながら没落生活を送るしかありません。
当初はフランス帰国を望んでいたものの、第三共和政が成立するとそれも無理なことと思えるようになりました。
フランスだって、またもボナパルト一族を許すほど甘くはありません。
むしろイギリスに君臨するヴィクトリア女王の方が、優しかったかもしれません。
この女王は、一家のためにわざわざカムデン・プレイスまで来たこともあるそうです。
これも時代の流れでしょう。
かつてのイギリスは、徹底的にナポレオンを嫌い、小馬鹿にしきっていたものです。
今でも、イギリス人が書いたナポレオン伝記は情け容赦がありません。
ジョージ4世は、ナポレオンが隠していたあるものを戦利品として献上されると、ノリノリで公開しております。
遊び呆けて莫大な借金こさえた英国王ジョージ4世 ムリに長所を探してみる
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「ちょwこれwwナポレオンの裸体像w」
当時の古代ギリシャローマブームにあやかろうと、自らをモデルとした裸体像を作らせたものの、恥ずかしいから隠したわけですね。
妹ポーリーヌは自分をモデルにした裸体像を自慢したそうですが、兄には無理でした。
作らせる前に気づけよ!
そんな黒歴史を公開するイギリス。
「イギリスは紳士の国ですから!」
はいはい、その通りで。
そんな英国紳士がナポレオンの子孫に親切にしたことは、それだけ無害だと思っていたということでしょう。
実はミーハー、イケメンプリンスが大好きなヴィクトリア女王の趣味もあるでしょうが。
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軍人としての栄光を目指す
とはいえ、ナポレオン4世は生きねばなりません。
父から帝王学を学びながら、彼はウリッジ王立士官学校へと進みます。
イギリスで最期を迎えた父の無念。
そしてボナパルト一族としての重圧。
なれぬ英語での授業。
そうしたものをはねのけ、ナポレオン4世は強く生きようとします。
士官学校を優秀な成績で卒業したナポレオン4世は、オーストリア軍への道を母の反対により閉ざされ、頓挫してしまいます。
かくして英国軍に入ったナポレオン4世。
いざ敵となったイギリス側は、扱いに苦労させられました。
目立たせると、フランス政府との関係が悪化してしまう。
貴公子に甘いヴィクトリア女王は、彼を腐らせたくはないと考えている。
とりあえず、危険性の低い任地を転々とさせる――それが無難な道でした。
インピに背を向けずに戦い……
そのころ、イギリスはズールー族との戦いに手こずっていました。
槍と盾で武装した相手なんか余裕でしょ、そう思っていたものの、これがどうにもうまくいかないのです。
「よし! 今こそ、ヴィクトリア女王の恩義に応える時なんだ!」
ナポレオン4世は、母の反対を押し切って、ズールー族との戦いに志願します。
1879年6月、悲劇が起こりました。
ズールー族との激戦のあと、戦場にはナポレオン4世の、裸にされた遺骸が残されていたのです。
享年23。
17箇所にも及ぶ槍による傷のうち、背中からのものはありません。
いかに勇敢に戦ったのか、うかがわせるものです。
ズールー族のインピ(戦士)も、その強さと勇敢さには感服したのでしょう。
父母の形見である装飾品は、略奪されずに残されていました。
槍と盾で近代イギリス軍を殲滅!ズールー族のインピとシャカ伝説とは
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そして、そのあまりに悲劇的な戦死の報告は、ヴィクトリア女王以下、イギリスを震撼させました。
遺骸はセントヘレナ島を経由してイギリスに運ばれ、葬儀にはヴィクトリア女王も参列したのです。
かくして、ボナパルト一族の後継者は、世継ぎを残すことなく世を去ったのです。
ボナパルトの血は今も続く
ボナパルト家はすべて滅びたのか?
いえいえ。そうではありません。
ナポレオンにとって3番目、末弟であるジェロームの家系が存続しています。
これが現在に至るまでお家騒動があり、ナポレオン7世は二人おります。争っているのです。
1950年生まれのシャルル・ナポレオン氏。
そしてその息子である1986年生まれのジャン・クリストフ・ナポレオン氏。
親子で争っているのだそうです。
ちなみに、ご子息はモルガン・スタンレー勤務だというのですから優秀ですね。
ブルボン朝系統のオルレアン家も、現当主はご健在です。
ただし、彼らが政治家として返り咲く日があるとはあまり思えません。
一度目は悲劇。
二度目は悲劇。
ならば三度目は?
無い方が幸せということでしょう。
フランス人は、もう王も皇帝も、その血も、必要ではないのです。
今も民衆がデモを起こし、政治を変えるフランス。
革命以来、彼らは民主主義と奮闘を続けて来ました。
彼らこそが、世界史上最先端の民主主義の只中にいること。それは間違いありません。
フランス人を笑ってはいけない。
バカにしてはいけない。
彼らこそ、私たちの未来の姿であるのですから。
文:小檜山青
【参考文献】
『ナポレオン四代』野村啓介(→amazon link)
『ナポレオン――最後の専制君主,最初の近代政治家 (岩波新書)』杉本淑彦(→amazon link)
『ナポレオン時代 - 英雄は何を遺したか (中公新書)』アリステア・ホーン(→amazon link)
『江戸のナポレオン伝説』岩下哲典(→amazon link)