絵・小久ヒロ

週刊武春 斎藤家

斎藤龍興は国を追い出されてからが本番!信長にネチネチ攻撃を続けた道三の孫

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マムシと呼ばれた道三。
その道三と悲劇的な決別をした息子の義龍。

二人とも、いかにも戦国大名らしい生涯を送った人物です。

では、道三の孫であり義龍の子である斎藤龍興(たつおき)は?

実は龍興も、祖父・父親ほどに名は知られておらず、彼らが辿ったルートとは別の生き方ながら、戦国大名「らしい」人生を送っています。
斎藤龍興の生涯を追ってみましょう。

 

斎藤龍興は義龍の息子にして忠勝らと同期

龍興は、天文十七年(1548年)に生まれたといわれています。

同年生まれの有名な戦国武将は、他に、徳川家の本多忠勝や、大友家の高橋紹運などがいます。
バリバリの世代ですね。

生誕当時の隣国であり、ライバルだった織田氏では、お市の方や織田長益(有楽斎)などが同世代(一歳違い)でした。
織田信長は1534年生まれ

龍興の母親については、まだ確定していません。
庶子だった説もありますが、斎藤義龍の正室・近江の方生まれという説も。

近江の方は浅井久政(長政の父)の娘とされますが、これは少々疑問が残ります。

久政と義龍の年齢が一歳しか変わらないため、実の娘ではなく、適当な年頃と血筋の娘を養女にしたものでしょう。
なんだかテキトーに見えますが、これは悪い話ではなく、国をまたいだ政略結婚のためによく行われていました。

父の斎藤義龍/wikipediaより引用

そんな流れから龍興の幼少期についても、よくわかっていません。
まぁ、子供の頃は特に問題がなかったということでしょう。

動きがハッキリわかるのは家督を継承してからのこと。
父・義龍が急死したため、そのタイミングはイレギュラーなものでした。

 

中二で四方を敵に囲まれるのはあまりに酷か

永禄四年(1561年)に家督を継いだとき、龍興は数えで14歳。
現代であれば中学二年生頃の年齢で、戦国真っただ中の美濃一国を担うことになったわけです。

このくらいの歳で元服し、大人扱いされるようになるのはよくある話ですが……龍興の場合、最も頼れるアドバイザーになるはずだった父親を失って、いきなり放り出されたようなもの。
よほどしっかりした家臣と日頃から親しく、教育されていれば、良い大名になれたかもしれません。

しかし、隣国・尾張では、麒麟児・信長が美濃侵攻の準備を進めていました。

母方の浅井氏を頼ろうにも、こちらは既に信長が妹・お市の方を嫁がせ、同盟している状態。
龍興や美濃からすれば、北近江(浅井氏)と尾張(織田氏)の二方向が敵になってしまったわけです。

唯一の望みである南近江・六角氏は、浅井氏との関係悪化で余力がなく、本格的に手を貸してもらうことは難しい状況でした。

まさに八方塞がり。
美濃の国外に助力を求めるのは、ほぼ不可能だったといえます。

また、年齢が若いこともあってか、龍興自身の判断力もまだ危ういものでした。

例えば、彼が重用した家臣の中に斎藤飛騨守という人がいます。
日頃から言動が酷かったらしく、家中での評判もすこぶる悪い――。

「飛騨守は竹中重治(竹中半兵衛)を常日頃から侮辱していた」
とのことで、
「重治に小便をひっかけた」
なんて話まであるほどです。

さすがに真偽は怪しいですが、おそらく周囲に
「飛騨守ならそのくらいやりそう」
と思われる人だったのでしょう。

それを龍興は咎めることができなかったのですね。

 

半兵衛に稲葉山城を乗っ取られ!

永禄四年(1561年)、織田家との間に【森部の戦い】が勃発。
なんとか斎藤方が勝ったものの、複数名の重臣を失っています。

また、翌永禄五年(1562年)にも、越前方面の守備をしていた郡上八幡城主・遠藤盛数が亡くなり、まさにジリジリと龍興は追い詰められていきます。

それでも竹中半兵衛らの活躍もあり、永禄六年(1563年)の【新加納の戦い】では勝利を収めました。しかし……。

翌永禄七年(1564年)には、かの有名な稲葉山城乗っ取り事件が起きています。

「竹中半兵衛が主君を諌めるため、わざと少人数で稲葉山城を奪い、反省を促した」
という、例の話です。

竹中半兵衛/wikipediaより引用

このとき美濃三人衆の一人であり、半兵衛の舅でもある安藤守就が、先の評判悪い斎藤飛騨守を殺害したとも。

城を乗っ取られた龍興は一目散に逃げ出しましたが、半兵衛と守就はすぐに稲葉山城を返したため、大名としてはまだ滅びていませんでした。

命がけの忠告をしてくれた半兵衛に対し、龍興は表面上の反省ばかり。
そもそもこんな事件が起きる時点で、先は決まったようなもので、自ら滅びていったも同然です。

なお、この乗っ取り事件は、あまりにも出来すぎた話ゆえ、こちらも真偽の程は不明ながら、国内が乱れていたことに間違いはないでしょう。
事件の詳細については、以下の記事をご覧いただければと存じます。

「稲葉山城乗っ取り事件」半兵衛を有名にしたアノ伝説とは?

永 ...

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櫛の歯が欠けるように配下の武将が織田家に降り……

こうして徐々に体制が揺らいでいく龍興率いる斎藤一族。
永禄八年(1565年)、信長がついに本格的な美濃攻略を始めます。

ここに至るまでの経緯が経緯ですから、斎藤氏の家臣の中には、龍興を見限って織田氏につく人が日に日に増えておりました。

例えば加治田城の佐藤親子や、安藤守就を含めた美濃三人衆(他の二人は稲葉一鉄・氏家卜全)などです。

永禄十年(1567年)にはついに本拠・稲葉山城まで攻め込まれ、龍興の命も……と思われました。

しかし、信長は何故か命までは奪いません。

こういう場合、攻め込まれた大名は降伏して攻め手に仕えるか、首を取られるか、出家するかのいずれかです。
龍興は、そのどれでもありませんでした。

一度、伊勢の長島本願寺に行っていますので、当初は出家する予定だったのかもしれません。
が、今度は摂津に行ったり、三好三人衆や一向一揆衆とコンタクトを取って、密かに反信長の同志と連携しようとしたり。

永禄十二年(1569年)1月には三好三人衆とともに、上洛と将軍就任を済ませた足利義昭を襲っています。
「本圀寺の変」とか「六条合戦」と呼ばれる事件ですね。

このとき、信長は京都を留守にしていて、京都のことは明智光秀らに任せていたため、その隙を狙ったと思われます。
そして以降、信長に対する攻撃を積極的に行っていくのです。

翌元亀元年(1570年)8月には、三好三人衆の対信長籠城戦(野田城・福島城の戦い)を支援します。
石山本願寺法主・本願寺顕如などと共に働いたとされます。

この戦は、織田信長vs石山本願寺戦の初戦とも呼べるものであり、それから約10年にも及ぶ激しいものでした。

そこに龍興が関与していたというのは、なかなか因果を感じる話ですし、織田家の西国進出を遅らせるという大きな出来事でもありました。

 

なぜ美濃国主時代にそれをやらなかった!

それだけに不思議に感じます。

『なぜこういった謀略を、美濃の国主だった頃に発揮できなかったのか?』

美濃を追われたときの龍興は19歳。
この頃は22歳になっていますから、家を追い出されて初めて世間に揉まれ、メンタル面を鍛えられたのでしょうか。

単なるアホでなかったのは間違い無いようで。
この頃キリスト教にも興味を持ったらしく、イエズス会の宣教師にかなり詳しく話を聞いたこともあったと言います。

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ただし、信者になったワケではありません。

「人間が神によって祝福された存在であるならば、なぜこの世にはこんなにも不条理なのか? なぜ善良に生きている者が、現世で報いを受けられないのか?」

そんな鋭い質問をしていたそうです。

イエズス会側の記録では、これらの質問に対して龍興が納得するような説明をした、ということになっています。

しかし、龍興がその後キリシタンになったという話もありませんので、得心がいったわけではなかったのでしょうね。

現代でも「欧米圏では、黙る=相手の意見を認めたも同然、あるいは自己主張がない」とされますし、龍興が議論をやめたことを、イエズス会側が「納得した」と受け取った可能性もありそうです。

 

龍興、刀禰坂の戦いで戦死

その後、三好三人衆が「病死・戦死・行方不明」という末路をたどると、龍興は畿内での拠点を失います。

行き場をなくし、次は浅井氏領を経て、最終的に朝倉氏のもとへ。
斎藤道三の孫だったからなのか、反信長だったのが受け入れられたのか。待遇は悪くなく、客将扱いだったともいわれています。

しかし天正元年(1573年)8月、その信長が朝倉氏攻めにかかった際、【刀禰坂の戦い】で戦死してしまいます。

享年26。

一説によると、美濃の重臣だった氏家直元の嫡男・氏家直昌が斬ったとも。
旧臣である稲葉一鉄の計らいで、最終的には美濃へ帰ることができた元・美濃守護の土岐頼芸(ときよりあき)と比べると、何とも対照的な最期ですね……。

ちなみに龍興には、生存説も残っています。
戦場から逃れ、越中国新川郡に身を寄せ、「九右エ門」と名前を変えて周囲を開拓しながら密かに暮らしていたのだそうです。

そして慶長十六年(1611年)に興国寺(富山市)で出家し、家督を息子に譲った後、寛永九年(1632年)に亡くなったのだとか。
こちらの説だと、享年87という長寿になりますね。

ただ……国外に追いやられても信長に抵抗しつづけた人が、すっぱり諦めて世を捨てるのは考えにくいですね。
もしも生き残っていたなら、信長が本能寺の変で斃れたときに、すぐさま動いていそうです。

いずれにせよ生存説があるということは、誰かが「この人にこんなところで死んでほしくない」と思っていたということ。
ダメ君主というイメージが強い龍興にも

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(→amazon link
斎藤龍興/wikipedia

 



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