寺社・一揆 信長公記

野田城・福島城の戦い(第一次石山合戦)|信長公記第73話

2019/09/06

最強武将と称される本多忠勝が、朝倉軍の真柄直隆と一騎打ちを繰り広げるなど――。

徳川軍の存在感が目立った姉川の戦い(1570年)に勝利したことにより、織田信長の近江侵食はより進み、ひいては浅井・朝倉両氏の勢いを削ぐことにも繋がりました。

しかし、一息つく間もなく、次の敵が出現します。

後に【野田城・福島城の戦い(第一次石山合戦)】と呼ばれる戦いの始まりです。それは元亀元年(1570年)のことでした。

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野田城・福島城の戦いと呼ばれるのはなぜ

姉川での激戦が終わって岐阜へ帰った信長。

そのもとに、京都の足利義昭から連絡が届きました。

「三好三人衆と十河長保や斎藤龍興などが手を組んで挙兵した。

摂津中嶋に進出し、城を二つ築いている」

一報を受けた信長は即断即決。

後顧の憂いを断つため、三好らを討つことにしました。

敵のメンツもなかなか豪華で、

細川昭元・三好長逸・三好康長・安宅信康・十河存保・篠原長房・石成友通・松本某・香西越後守・三好政勝・斎藤龍興・長井道利

数多の武将が揃っておりました。

信長により岐阜城(稲葉山城)から追い出されていた斎藤龍興もこんなところにいたんですね。

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注目は二つの城です。

野田城・福島城と呼ばれており、この戦も【野田城・福島城の戦い】と称されています。

また、後述の通り石山本願寺も関わってくるため「第一次石山合戦」と呼ばれることもありますね。

 


信長本隊が3,000 全軍で40,000

この合戦、信長の生涯において非常に重要です。

なぜなら全国でもトップクラスの強大な存在・本願寺と真っ向からぶつかった最初の戦いだからです。

同集団は、下手な戦国大名では太刀打ちできない財力・兵力を有しておりました。

それだけに足利義昭も慌てたのでしょう。

近隣の大名に「信長と協力して、三人衆を討て」と命ずるのですが……。

各個撃破されてしまったり。

領内が不穏な状況になっていて動けなかったり。

なかなかうまくいきません。

そうこうしているうちに、8月20日に岐阜を出発した信長は、23日に京都へ入り、一日兵を休ませます。

そして25日に枚方(大阪府枚方市)まで進み、陣を構えました。

絵・富永商太

信長本隊が3,000。

全軍で40,000ほどだったと言いますから、このときの織田家がいかに勢力拡大しつつあったかご理解いただけるでしょうか。

かといって楽勝な展開だったわけでもなく。

26日、信長は天王寺(大阪市天王寺区)に陣を構え直しました。

信長の本陣には、貢ぎ物を持ってあいさつに来る者、陣容を見物に来た者など、多くの野次馬連中が訪れていたといいます。

始まる前とはいえ、戦の話とは思えないほどノンビリした空気ですね。

あまりにも戦が日常茶飯事になってしまって、庶民の感覚も慣れてしまっていたのでしょうか。

まぁ、この頃は農民でも武装し、ときには戦うことも辞さなかった(どころか領主に戦をけしかけるケースもあったとか)ので、肝も据わっていたのでしょう。

 

足利義昭も二千の兵を率いて堀城へ

このあたりで、三好三人衆方の三好政勝・香西越後守(香西長信)が織田方につき、内部から敵を崩す計略が立案されました。

しかし、敵の警戒は殊のほか厳しく、実行が難しい状況。

政勝と香西は28日、信長本陣へ駆け込んできたといいます。

野田城・福島城の位置は現在わからなくなっているのですが、河口付近のいわゆる三角州にあったようで。

石山合戦之図・中心に本拠地の石山本願寺があり、その下、三角州の入り口辺りに野田城と福島城があったと目されている

そのまま力攻めするには難しいところでした。

だからこそ、内部からの切り崩しを図っていたのですが……織田軍としては、なかなか厳しい状態です。

9月3日、細川藤賢が城主を務める堀城(大阪市淀川区)へ、足利義昭が二千の兵を率いてやってきました。

信長の要請によるもので、将軍の権威や立場を活用する狙いでしょう。

あるいは義昭の顔を立てることで、できるだけ良好な関係を続けようとしたのかもしれません。

義昭のほうでも、いくらかの意欲はあったようです。そもそも、信長に協力してもらうために三好三人衆らの動きを知らせたわけですしね。

8日、信長は石山本願寺の西・楼岸(大阪市)に砦を築かせ、

・斎藤新五
・稲葉一鉄
・中川重政

らを配備しました。

川向こうの川口という村にも砦を作り、多くの武将を配置しています。

また10日には、敵城付近の入江・堀を埋めさせ、攻城の準備を確実に進めていきました。

むろん兵や武将を動かすばかりではありません。12日に野田・福島の北にある海老名という村で義昭と合流すると、ここに本陣を移し、本格的な攻撃を始めたのです。

 

雑賀衆が信長の味方に!?

信長配下の諸隊が昼夜関係なく、土手を築き、やぐらを建て、大砲を撃ち込む!

また、このタイミングで

・根来
・雑賀

などから二万ほどの軍勢が織田方で参戦しました。

三千丁の鉄砲を持参しており、織田軍と共に敵城へ昼夜撃ちかけた……って、ちょっと待った!

雑賀の軍勢は本来、信長の敵のはず。

石山本願寺に籠もって、ほかならぬ信長の西進を止めようとしていたではないか――。

そう思われる戦国ファンの方もおられるでしょうか。

一瞬、困惑しましたが、そもそも雑賀衆は傭兵集団であり、石山本願寺サイドにも助太刀として入り、両軍で戦っていたのでした。

本願寺鉄砲隊[石山軍紀]/wikipediaより引用

それだけに戦場で飛び交う鉄砲の数は凄まじく。

信長公記では「敵味方の銃声で、日夜天地が轟くようだった」と表現されています。

ただし、攻撃側の織田軍が勢い上回っており、防戦の城方はたまらず音を上げ、和睦を申し入れました。

しかし信長は「もう少しで落とせそうだから、構わず攻め続けろ」と命じるのです。

 


成政や利家 活躍の場面も

13日になって、いよいよ石山本願寺が動きました。

彼らは浅井氏と連絡を取り合っていました。

つまり、最初から信長と敵対する気満々だったのです。

そもそも野田・福島両城が落ちることがあれば、自分たちもいよいよ危なくなります。

大坂本願寺寺内町想像復原模型/photo by ブレイズマン wikipediaより引用

距離的にも、二つの城から石山本願寺までは4km程度だったといわれていますので、危機感が強まるのも至極当然の話でした。

本願寺軍は、織田方が築いた楼岸・川口の砦に鉄砲を撃ち込んだり、一向一揆勢を蜂起させたり。

なんとか抵抗してみせますが、大勢には影響していません。

それでも防戦一方ではなく、14日になると、大坂方が天満ケ森へ出撃し、織田方が応戦しました、

一番手は佐々成政で、負傷して後退。

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二番手は前田利家で、左右から弓などによる援護があり、無事撃退できています。

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しかし、野村越中など、討ち死にした者もいたようです。

また、毛利長秀と兼松正吉の二人は、石山本願寺の幹部・下間頼総しもつまよりふさの家来である長末新七郎ながすえしんしちろうを協力して組み伏せたといいます。すると……。

「この首はあなたものです」

「いいえ、私は手伝っただけ、あなたものです」

「いや、あなたが……」

と、互いに首を譲り合って話がつかず、結局、取り捨てにしてしまったのだとか。

首というのは、味方をだまし討ちしてでも奪い取る――そんな認識がありましたが、戦国時代においてもこうした譲り合いがあったというのは興味深い話ですね。

なお、この戦いの間に浅井朝倉軍が蜂起して織田軍に襲いかかるのですが、それは次回(志賀の陣・宇佐山城の戦い)をお待ちください。

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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