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月岡芳年の武蔵塚原試合図/Wikipediaより引用

その日、歴史が動いた 剣豪・武術・忍者

剣聖・塚原卜伝にまつわる伝説の数々 宮本武蔵との対決は死後の話か~い!

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偉大な人物となると、箔をつけるために余計な尾ひれがつきがちなものです。
秀吉のように自ら作ったと思しきものならともかく、後世になってから話が広まっているのを知ったら、本人もあの世で頬をかいているかもしれませんね。まあ、良い方向であればまんざらでもなさそうですが。

その手の話が多いのは、やはり剣豪や一国の将軍・王といったいかにも英雄然とした人物ですよね。
今回は前者の一人、やたらといろいろな武将と絡んでいた……といわれる人のお話です。

元亀二年(1571年)2月11日は、剣豪の一人・塚原卜伝(ぼくでん)が亡くなった日です。
いろいろな武将に剣を教えたとか、勝負をしたという逸話がたくさんある人ですね。が、やはりその全てが事実とは限らないようで。

塚原卜伝/photo by Saigen Jiro Wikipediaより引用

 

弟子・孫弟子たちが次々に流派を広げていった 

彼は現在の茨城県鹿島市で代々剣術の先生をやっていた家に生まれました。
父は卜部覚賢。後に塚原土佐守安幹の養子となります。

卜伝は才能と良い環境に恵まれ、十代後半の頃には既に剣豪として知られていたようで。
その中で戦に参加したこともあれば、行く先々で教えを請われたこともあり、当時にしてはかなり広い範囲で逸話を残しています。

多分一つの家に仕えるのではなく、あくまで剣豪として生きていたからこそバリエーションに富んだエピソードが生まれたのでしょうね。

弟子たちは大きく二つのグループに分かれます。
といっても弟子同士の面識があったのはごく一部でしょう。

まず一つは、後に自らもまた剣術の流派を興した人々です。例えば、諸岡一羽(いっぱ)が一羽流を興し、さらにその弟子がまた新たな流派を創設していったりしています。

卜伝が「剣聖」と呼ばれるのは、後世に語り伝えられた実力や人格などに加えて、「師匠の師匠の師匠(ry)なんだからエライ人に決まってんだろ!」といった遠い存在に対する尊崇の念からというのもあるんでしょうね。

ちなみに、新撰組局長・近藤勇が会得したと言われている”天然理心流”も卜伝の流派・鹿島神道流や一羽流の流れを組むとされることがあるので、卜伝の孫弟子の孫弟子みたいな見方ができるかもしれません。ややこしいな。

 

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将軍様や名門武家など名だたる武将たち

そして弟子グループのもう一つは、戦国武将たちです。

「剣豪将軍」こと足利義輝、ミスターチートこと細川幽斎(藤孝)、家が滅びても妻LOVEで生き残った今川氏真、はたまた北畠具教など、錚々たるメンバーが名を連ねています。
武家の名門ばかりですね。どちらもはっきりした記録がなく「ホントに弟子?(´・ω・`)」という人もいるのですが、まあそれだけ尊敬されていたということですね。

個人的には、義輝がああいう死に方をしているので、これを聞いたお師匠様の卜伝が何を思ったかとかものすごく興味があります。小説とかでありそうですね。
また、剣の道を極めた人にはままあることですが、卜伝は「戦わずして勝つ」ことも重視していました。「被害を最小限にして勝つ」ともいえますかね。
これを示す有名なエピソードとして、象徴的なものがあります。

 

これが無手勝流だ! ハーッハッハッハッハ!! 

あるとき卜伝が琵琶湖を渡る船に乗り、相客と話していたところ勝負を持ちかけられました。

卜伝は面倒だったのか早く目的地に行きたかったのか、なかなか受けようとはしません。しかし相手がしつこいので彼も折れ、「そこまで言うなら一本だけ」ということで別の船に移って近くの小島に向かいました。

相手はあの塚原卜伝と勝負ができるということでwktkdkdk 足がつくところまで来たと見るや否や、さっそく降り立ちました。

と、卜伝はここで予想だにしない行動に出ます。

なんと、相手を一人残してそのまま船を再び漕ぎ出していったのです。
呆然とする相手を尻目に、彼は「これが無手勝流だ! ハーッハッハッハッハ!!」(意訳)と呵呵大笑して去っていったとか。確かにその通りだけど……。

相手はその後誰かに助けてもらえたんですかね。
助からなかったらその場で怨霊になっててもおかしくないですけど、琵琶湖にそういう話はあるんでしょうか。

怪談はいくつかあるらしいですが、この件が関係あるのかどうかまで確かめる度胸がありませんでしたスイマセン。ご存知の方はこっそり教えてくださいませ。

 

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 鍋蓋対決のお相手・宮本武蔵は卜伝の死後に生まれてます

また、卜伝と勝負というと宮本武蔵との逸話も有名ですね。

「武蔵が卜伝の食事中に乱入して切りかかったが、卜伝は鍋の蓋で防御して応じた」

というものです。アンタはド○クエの主人公かとかいろいろツッコミたくなりますが、そもそもこの話には重大なミスがあります。

上記の通り、卜伝は信長の時代に亡くなっています。が、武蔵は天正十二年(1584年)頃、つまり本能寺の変の後に生まれたといわれているので、会えるはずがないのです。アチャー (ノ∀`)

まぁこの話自体が江戸時代あたりに出てきたものらしいので、当時の剣術ファンが「卜伝と武蔵だったらこういうことできんじゃね!?」「なにそれかっこいい!!」「さすが剣聖!俺達にできないことを(ry」みたいな感じで盛り上がって大ウケした結果、現代まで知られるようになったんでしょうねえ。

……まとめると、日本人の遺伝子は400年前から着々と受け継がれているということになるのでしょうか。なるほどわからん。

剣豪ということで、当たり前といえば当たり前に物騒な話が多いのですが、死に方もそうかと思いきやそうでもありません。

親族の家で穏やかに息を引き取ったそうです。

これが武将であれば不本意と感じたかもしれませんけども、彼はあくまで剣豪ですから。
畳の上で死ねて良かったと思っていたかもしれません。

長月 七紀・記




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参考&TOP画像:国史大辞典 塚原卜伝/Wikipedia

 

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