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その日、歴史が動いた 島津家

鎌倉時代の島津忠久から始まった 伝統ナンバーワンの武門・薩摩島津家

更新日:

 

現在「城下町」として知られているところは、かつての大名のイメージが強い場合が多いですよね。代表的なのはやはり大阪=秀吉でしょうか。
本日はそれと同じく、地域と強く結びついたあの家のお話です。

嘉禄三年(1227年)、島津家の初代・島津忠久が亡くなりました。

島津忠久/Wikipediaより引用

 

島津家というのは「鎌倉以来の名家」と呼ばれる家の一つですが、こうやって改めて数字で見ると、歴史の長さが伺えますね。

忠久にたどり着く前の経緯もかなり古く、元をたどれば渡来人の秦(はた)氏だといわれているのです。彼らが帰化したのは3世紀あたりのことなので、鎌倉時代の時点でも既に1000年程度経過。もはや帰化云々と言うのがアホらしいレベルですね。

ちなみに、四国の雄・長曽我部家も秦氏の系統だといわれていますので、ものすごく遠い親戚といえなくもありません。世間は広いようで狭い・・・。
さて、もう少し近い時代の話に移りましょう。

 

ルーツは京都 藤原北家に仕えていた!?

島津家の直接の先祖は、惟宗忠康という武士だという説が現在やや優勢のようです。

彼は藤原氏の中で最も栄えた藤原北家(藤原道長を輩出)に仕えていた人で、忠康の息子が忠久だという説もあります。つまり、島津家のルーツは京都にあるんですね。

忠久の母親が源頼朝の乳兄弟だったため、頼朝が関東で挙兵して京都へ影響力を持つようになると、その縁で出世していきました。
どうでもいい話ですが、この「乳兄弟」という関係がからむと、まさに「男の友情」という感じがして燃えますね。織田信長と池田恒興しかり、光源氏と藤原惟光しかり。後者はフィクションですけども。

そうした縁で源氏方についた忠久は、平家追討軍にも加って褒美として伊勢をもらいました。伊勢というとまず伊勢神宮が思い浮かぶ方が多いと思いますけれども、実は清盛の系統の平氏が代々領地としていた場所でした。そのため「伊勢平氏」と呼ばれることもあります。
敵の縁の地を与えられたということは、忠久がかなり高い評価を受けていたことを示唆していますね。

藤原道長 画・菊池容斎/Wikipediaより引用

 

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九州へ赴任当時は都と地元を行ったり来たり

その後、藤原北家の領地の一つだった日向国島津荘という場所に国替えを命じられ、ここから島津の名字を名乗るようになりました。

江戸時代に島津家から二人の御台所(将軍の正室)が出ていますが、このとき藤原家の後裔である近衛家の養女になったのは、こういう縁が代々続いていたからなんですね。
ものすごく単純に考えると、500年越しのおつきあいということになります。すげえ。

とはいえ忠久は、すぐに九州へ移ったわけではなく、しばらくの間は九州と都をたびたび行き来していました。領内へ本格的な館を造って移住したのは、領地をもらってから約10年後、建久七年(1196年)のことです。

この頃は、まだまだ鎌倉幕府の形が不安定な時期でしたので、奥州合戦にも参加したり、頼朝上洛のお供を務めたりと、あまり領国に落ち着いたという感じではなかったようですね。
その代わり、立て続けに任官を受けているため、やはり頼朝からの信頼は上々だったことが伺えます。

しかし、頼朝の死後、忠久に大きな不幸が降りかかりました。

 

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忠久も巻き込まれて危うく殺されるところだった!?

かつて源平の戦いでは馬を並べて戦った比企(ひき)家の面々が、北条家とトラブルを起こし、滅ぼされてしまったのです。建任三年(1203年)に起きた、比企の乱もしくは比企能員の乱と呼ばれる事件ですね。

比企家から二代将軍・頼家の側室が出ていたことから、いわゆる後宮政治がもつれて起きたものだったのですが、忠久も同類と見なされ、九州の領地を全てボッシュートというイヤな予感しかしない罰が下されました。

しかも運の悪いことに、当時忠久は領地の一つ・大隅(現・鹿児島県)にいて、知らせを受け取るのがずっと遅れてしまっています。そのため、事の次第を確かめに上洛する際、地元のお寺に「どうか無事に戻ってこられますように」と願文を収めていったとか。
反乱者の縁者と見なされる理由があるとはいえ、全く関与していなかったことで咎められて命も危ういとなったら、神仏にすがりたくもなりますよね。

その後しばらく京都で仕事をしていたことで、幕府からは「アイツは命まで取らなくてもいいだろ」と見なされたようです。ここで忠久がコロされてたら、島津家のその後も九州の情勢も大きく変わっていたでしょうね。良かった良かった。

 

甲斐に領地をもらい、薩摩の守護地頭職に復帰

比企の乱から10年後、建暦三年(1213年)に忠久は三代将軍・実朝の学問所番(警備員+学友みたいなもの)に抜擢されており、仕事上の信頼を取り戻していたことがわかります。

その後の戦でも真面目に働いたおかげで、甲斐に領地をもらったり、薩摩の守護・地頭職に復帰することができました。忠久もさぞ安心したでしょうねえ。
京都に馴染みがあり、真面目に仕事をできる人間だと見なされたおかげか、検非違使にも任じられています。これだけいろいろやらされると、信頼されるのはいいにしても過労死しそう。笑えない。

島津家とは1,000年の付き合い、桜島/Wikipediaより引用

 

彼の生年がわかっていないので、享年もいくつだったのかはっきりしたことはわかっていません。母親が頼朝の乳兄弟ということは、頼朝より15~20歳くらい年下だろうと考えられますので、個人的には60歳くらいで亡くなったんじゃないかと思います。
死因は脚気と赤痢のダブルパンチだったそうですから、もし病気になっていなければ、もう少し長生きしていたかもしれませんね。

忠久の存命中に源氏将軍は絶えてしまっていましたので、長生きしてもあまり良いことはなかったかもしれませんが……。

 

鎌倉時代からずーーーーっと薩摩一本!

忠久以降の島津家は、三代・久経の代から一族揃って薩摩で過ごすようになりました。
その後は国替えを命じられることもなく、鎌倉・室町・戦国・江戸……と、ずっと薩摩の主であり続けたのです。

以前何かの記事でもチラっとお話ししましたが、おそらく全国の大名家で唯一、武士が興りはじめた時代から領主が変わっていない土地だと思われます。そりゃ秀吉が九州征伐に行ったとき、島津側が「どこの馬の骨ともわからんヤツに頭を下げてたまるか!」となるわけですね。

この一族が桜島を見守ってきたのですね……/Wikipediaより引用

武家ではなくなった後も当然、血筋は続いていて、現在は三十二代・修久(のぶひさ)氏がご当主でいらっしゃいます。会社の会長さんや複数の神社の宮司さん、茶道、古武道、薩摩琵琶など、商業的なことから文化的なことまでさまざまな方面に関わっておられるようで。

今は、どちらにお住まいなのか想像もつきませんが(もしかして現在も鹿児島?)、「薩摩の殿」なんて本が出ていますので、やはりそうしたイメージで見られているようです。
他人がアレコレ言うことでもないですけれど、できれば末永くお家の歴史や文化を伝え続けていっていただきたいですね。

長月 七紀・記

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参考:島津忠久/Wikipedia

 

 





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