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【島津忠久】
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そのため、事の次第を確かめに上洛する際、地元のお寺に「どうか無事に戻ってこられますように」と願文を収めていったとか。
反乱者の縁者と見なされる理由があるとはいえ、全く関与していなかったことで咎められて命も危ういとなったら、神仏にすがりたくもなりますよね。
その後しばらく京都で仕事をしていたことで、幕府からは「アイツは命まで取らなくてもいいだろ」と見なされたようです。
ここで忠久がコロされてたら、島津家のその後も九州の情勢も……なんなら明治維新の西郷隆盛や大久保利通にも大きく影響していたでしょうね。
というか、生まれてませんね。歴史IFなお話でごめんなさい。
話を元に戻しましょう。
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甲斐に領地をもらい、薩摩の守護地頭職に復帰
比企の乱から10年後。
建暦三年(1213年)に忠久は、三代将軍・源実朝の学問所番(警備員+学友みたいなもの)に抜擢されており、仕事上の信頼を取り戻していたことがわかります。
その後の戦でも真面目に働き、甲斐に領地をもらったり、薩摩の守護・地頭職に復帰することができました。
忠久もさぞ安心したでしょう。
京都に馴染みがあり、真面目に仕事をできる人間だと見なされたおかげか、検非違使にも任じられています。
これだけいろいろやらされると、信頼されるのはいいにしても過労死しそう。笑えない。
彼の生年がわかっていないので、享年もいくつだったのかはっきりしたことはわかっていません。
母親が頼朝の乳兄弟ということは、頼朝より15~20歳くらい年下だろうと考えられますので、個人的には60歳くらいで亡くなったんじゃないかと思います。
死因は脚気と赤痢のダブルパンチだったそうですから、もし病気になっていなければ、もう少し長生きしていたかもしれません。
忠久の存命中に源氏将軍は絶えてしまっていましたので、長生きしてもあまり良いことはなかったかもしれませんが……。
鎌倉時代からずーーーーっと薩摩一本!
忠久以降の島津家は、三代・久経の代から一族揃って薩摩で過ごすようになりました。
その後は国替えを命じられることもなく、鎌倉・室町・戦国・江戸……と、ずっと薩摩の主であり続けたのです。
おそらく全国の大名家で唯一、武士が興りはじめた時代から領主が変わっていない土地だと思われます。
そりゃあ豊臣秀吉が九州征伐に行ったとき、島津側も「どこの馬の骨ともわからんヤツに頭を下げてたまるか!」となるわけですね。
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武家ではなくなった後も当然、血筋は続いていて、現在は三十二代・島津修久(のぶひさ)氏がご当主でいらっしゃいます。
会社の会長さんや複数の神社の宮司さん、茶道、古武道、薩摩琵琶など、商業的なことから文化的なことまでさまざまな方面に関わっておられるようで。
『薩摩の殿』(→amazon)という本も出ていますね。
今後も末永くお家の歴史や文化が伝え続けられることを遠くから願っております。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon)
関幸彦・野口実『吾妻鏡必携』(→amazon)
島津忠久/Wikipedia