島津忠久

島津忠久/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

島津氏の初代・島津忠久が薩摩に屈強な武家を築く~実母は源頼朝の乳兄弟だった

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
島津忠久
をクリックお願いします。

 


甲斐に領地をもらい、薩摩の守護地頭職に復帰

比企の乱から10年後。

建暦三年(1213年)に忠久は、三代将軍・源実朝の学問所番(警備員+学友みたいなもの)に抜擢されており、仕事上の信頼を取り戻していたことがわかります。

その後の戦でも真面目に働き、甲斐に領地をもらったり、薩摩の守護・地頭職に復帰することができました。

忠久もさぞ安心したでしょう。

京都に馴染みがあり、真面目に仕事をできる人間だと見なされたおかげか、検非違使にも任じられています。

これだけいろいろやらされると、信頼されるのはいいにしても過労死しそう。笑えない。

彼の生年がわかっていないので、享年もいくつだったのかはっきりしたことはわかっていません。

母親が頼朝の乳兄弟ということは、頼朝より15~20歳くらい年下だろうと考えられますので、個人的には60歳くらいで亡くなったんじゃないかと思います。

死因は脚気と赤痢のダブルパンチだったそうですから、もし病気になっていなければ、もう少し長生きしていたかもしれません。

忠久の存命中に源氏将軍は絶えてしまっていましたので、長生きしてもあまり良いことはなかったかもしれませんが……。

 


鎌倉時代からずーーーーっと薩摩一本!

忠久以降の島津家は、三代・島津久経の代から一族揃って薩摩で過ごすようになりました。

その後は国替えを命じられることもなく、鎌倉・室町・戦国・江戸……と、ずっと薩摩の主であり続けたのです。

おそらく全国の大名家で唯一、武士が興りはじめた時代から領主が変わっていない土地だと思われます。

そりゃあ豊臣秀吉が九州征伐に行ったとき、島津側も「どこの馬の骨ともわからんヤツに頭を下げてたまるか!」となるわけですね。

豊臣秀吉
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年

続きを見る

武家ではなくなった後も当然、血筋は続いていて、現在は三十二代・島津修久(のぶひさ)氏がご当主でいらっしゃいます。

会社の会長さんや複数の神社の宮司さん、茶道、古武道、薩摩琵琶など、商業的なことから文化的なことまでさまざまな方面に関わっておられるようで。

『薩摩の殿』(→amazon)という本も出ていますね。

今後も末永くお家の歴史や文化が伝え続けられることを遠くから願っております。


あわせて読みたい関連記事

源頼朝
源頼朝が伊豆に流され鎌倉幕府を立ち上げるまでの生涯53年とは?

続きを見る

源義仲・木曽義仲・木曾義仲
なぜ木曽義仲は平家討伐に活躍したのに失脚へ追い込まれたのか?

続きを見る

今井兼平
義仲と共に散る信濃武士・今井兼平は理想の乳母子~主君と共に散る

続きを見る

コメントはFacebookへ

桓武平氏
桓武平氏とその他の平氏たち~勢いあったのは清盛を輩出した伊勢平氏だけ?

続きを見る

北条義時
北条義時が頼朝を支え鎌倉幕府を立ち上げ 殺伐とした世で生き残った生涯62年

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon
関幸彦・野口実『吾妻鏡必携』(→amazon
島津忠久/Wikipedia

TOPページへ


 



-源平・鎌倉・室町
-,

×