池田恒興

池田恒興/wikipediaより引用

織田家

池田恒興は信長の躍進を支えた乳兄弟で重臣だった!最期は家康に敗れた生涯49年

1584年5月18日(天正12年4月9日)は池田恒興の命日です。

大河ドラマ『どうする家康』では徳重聡さんが演じ、清州会議に登場したかと思ったら、小牧・長久手の戦いで瞬く間に討死してしまう――。

そこで、一体どんな武将なのか?と疑問に感じられた方もいらっしゃるでしょう。

実はこの恒興、そもそもは織田信長と乳兄弟であり、織田家では重要なポストにいた御仁。

信長の快進撃を支えた重臣の一人であり、同じく織田家で重きをなしていた森長可が娘婿にいるほどで、もしも本能寺の変が起きなければ、そのまま織田政権の中心にいたと思われる人物です。

それがなぜ秀吉の傘下に入り、三河中入りで戦死してしまうような事態になったのか?

池田恒興の生涯を振り返ってみましょう。

 


母は信長の乳母・養徳院

池田恒興が生まれたのは天文五年(1536年)のこと。

父の池田恒利は早いうちに死に別れたようで兄弟はおらず、一方で恒興の母に関する逸話は比較的多く残っています。

彼の母は信長の乳母である養徳院。

当時、信長は数えで3歳であり、現代でも卒乳するかどうかの頃合いですが、当時、乳母の乳首を噛み切るという凄まじい子供だったと伝わっています。

結果、いずれの乳母も長続きせず、周りの人々も困り果てていたところ、養徳院が乳母になるとビックリ、この悪癖が不思議と直ったとか。

そのため彼女は”大御乳(おおおち)様”と呼ばれています。

一体どんな方法で直したんですかね?

まぁ、単純に彼女の体温とか匂いなどが乳児の性に合ったのかもしれませんねえ。

養徳院は後に信長の父・織田信秀の側室にもなり、二人の間には小田井殿という娘が生まれています。

つまり

◆恒興と信長は乳兄弟であり

◆小田井殿と信長は異母兄妹であり

◆恒興と小田井殿は異父兄妹である

ということになりますね。

少々ややこしい関係になりますが、信長と恒興の結びつきが強いことはご理解いただけるでしょう。

 


家臣が信長に斬られる!?

無事に成長した池田恒興は、その後、信長の小姓として仕えるようになります。

まだ若い頃の信長は身内争いが非常に多く、弟・織田信勝(信行)との家督争いも勃発。

恒興は、当然ながら信長を助ける立場にあり、そのせいか「信勝(信行)暗殺の際に直接手を下したのは恒興だ」という話もあるほど。

事が事ですので史料からの確認は難しいところですが、恒興は信長の”懐刀”のような存在だったのかもしれません。

それだけに織田家では一定の権勢を誇っていたようで、『信長公記』にこんな記録が残されています。

「あるとき、池田恒興の家臣の左介が織田信房の家臣・甚兵衛と揉め、たまたま通りかかった信長が火起請で決着をつけ、左介を成敗した」

詳細は以下の記事をご覧いただくとして、

恐怖の火起請と信長~戦国初心者にも超わかる信長公記21話

続きを見る

事の次第をまとめますと、日頃、恒興が信長に引き立てられていたため、家臣である左介が思い上がってしまい、それを見抜いた信長に成敗されたというものです。

恒興は現場にいなかったようで、その後、特に罰せられたという記述はありません。

また、詳細は不明ながら、恒興はおそらく1550年代後半に結婚していたと考えられます。

妻は後に善応院と呼ばれる女性で、信長の異母兄弟とされる織田信時に嫁いでいました。

しかし信時は男色関係にあった者たちとのトラブルで自害に追い込まれ、残された善応院が恒興へ再嫁することになったのです。

信時が自害したのは弘治二年(1556年)6月のことです。

そして恒興の長男・元助が生まれたのが永禄二年(1559年)または同七年(1564年)とされているため、恒興の結婚は1550年代後半ごろが妥当なのでしょう。

 


姉川の戦いでは徳川の加勢へ

永禄3年(1560年)5月19日、織田家の行く末を決める一大合戦が勃発しました。

桶狭間の戦い】です。

桶狭間の戦い
桶狭間の戦い 信長の勝利は必然だったのか『信長公記』にはどう書かれている?

続きを見る

池田恒興も参戦していたようですが『信長公記』に際立った記述はなく、初めて活躍が記されるのは永禄4年(1561年)における西美濃侵攻となります。

十四条の合戦で成政&恒興お手柄~戦国初心者にも超わかる信長公記40話

続きを見る

【十四条の合戦】と呼ばれる戦いで敵の先陣を追い散らし、佐々成政と協力して敵将の稲葉又左衛門を討ち取りました。

『信長公記』の著者・太田牛一は、天文23年(1554年)頃に織田家へ仕え始めたとされていますので、それ以前の話題が少ないのは致し方ありません。

火起請の話も、織田家中で語り草になっていたか、牛一が直接聞いたか、あるいは牛一が信長の果断さを称えるため何らかの話を創作した可能性もあるでしょう。

恒興の立場からして、永禄11年(1568年)の信長上洛にも同行していたと思われますが、記録はありません。

次に恒興が参加したとされる大きな戦は、元亀元年(1570年)【姉川の戦い】です。

浅井朝倉連合軍と織田徳川連合軍が近江で激突した野戦。

このときの恒興は丹羽長秀と共に徳川軍の加勢へ向かい、朝倉軍と戦ったとされています。

長秀も織田家になくてはならない将として知られますので、信長が二人を信頼して送り出したのがわかりますね。

こうして戦功を重ねていった褒美なのか。

恒興は元亀元年に犬山城と一万貫を与えられています。

さらに天正2年(1574年)には武田家への押さえとして、東美濃の小里城へ。

対武田との攻防については少しややこしくなりますので、前後の事情も見ておきましょう。

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