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その日、歴史が動いた 諸家

三好長慶は信長よりも前に天下人!? 松永久秀に翻弄されて迎えた不憫な最期

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「戦国大名」というと、いかにもタフな人を想像しますよね。政略なり戦なりで勢力と領地を広げていくのですから、そういったイメージがつくのも無理はありません。
が、現代人と同じように彼らも人間ですから、生涯頑健な心身でいられる人は本当に稀です。
今回はその一端が垣間見える、戦国中期頃の人物のお話。

大永二年(1522年)2月13日は、三好長慶が誕生した日です。

戦国時代では織田信長をはじめとした三英傑(豊臣秀吉徳川家康)を基準に考えることが多いので、「三好家って信長にやられた家だっけ?」くらいの印象の方が多いでしょうか。
生まれた年からもわかる通り、長慶はもうちょっと前の世代の人ですが。

三好長慶/wikipediaより引用

 

父の三好元長も長慶も管領・細川晴元に仕えたが

長慶の父・三好元長は、当時の室町幕府管領(ナンバー2)・細川晴元の重臣でした。三好家の所領が現在の徳島県三好市で、長慶もここで生まれています。
長慶が生まれる前、細川家は内乱を起こしていて、元長がケリをつけたようなものでした。当然元長と三好家の勢力は大きくなり、都を含めた山城(現在の京都府)にも影響を及ぼすようになります。
晴元はこれが気に入らず、一向一揆を起こして元長をブッコロさせました。ひでぇ。
このとき長慶は10歳で、母とともに堺にいたようです。元長は一揆の襲来前に、妻子を本国・阿波へ逃したのだとか……。

しかし、一揆というものは制御しようと思っても難しいもの。晴元の手に負えなくなった一揆は「享禄・天文の乱」と呼ばれる戦乱にまで発展します。アホか。
この一揆、一年後にまだ元服前の長慶が和睦を取り持ったらしいのですが……さすがにどうなんでしょうね。
もしこれが本当なら、晴元は名実ともに子供の長慶に、自分がけしかけた一揆を収めてもらったことになってしまいますし。情けないにも程があるやろ。

しかも、長慶はこの後元服したのですが、その後数年はまだ幼名で呼ばれていたようなのです。
和睦を取り持ったのが本当なら、「なんて素晴らしい若様だ!」と思われて、すぐ成人後の名前が定着しそうなものですよね。古今東西、幼い家長ほどぶっ潰しやすいものもないですし、一揆勢や晴元との戦いも続いていますし。
後者については「まだ若いから」という理由であっさり許され、細川家の傘下に舞い戻っているのですが。父親の仇に対してそれでいいんかーい。

 

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四国の阿波から飯盛山城へ本拠地移転

その後の長慶は、晴元の部将として本願寺などと戦っていました。

が、その関係性は常に順調とはいきません。例えば、元長が任命されていた役職を与えてくれるよう長慶が訴えても、晴元は聞き入れていないのです。
一方で、政局の変化によって京の治安が悪化したときには、将軍・義晴から長慶に治安維持の命が下りました。

こういった流れのため、長慶は本国・阿波ではなく畿内を拠点とすることを決め、地元に戻らなくなりました。後に飯盛山城(大阪府大東市・四條畷市)を本拠としています。京都から遠すぎず、阿波にも行きやすい場所として選んだようです。
本拠地の移転は、よほどうまくやらないと内外の反発を招きやすいものです。長慶は、それをうまくこなすだけの才があったということでしょうね。

これを受けてか、幕府から摂津(大阪府と兵庫県の一部)の守護代に任じられています。しかしそれによって、ますます晴元の脅威ともなりました。
天文十年(1541年)には独自に税の徴収を行って、晴元から「おいやめろ」と言われたこともあります。本来ならその仕事は晴元の側近がやることだったからです。
長慶に非があるはずですが、既に「上司なんぞくそくらえ」が定着していた時代のこと。長慶はこれを拒否し、晴元と対立する姿勢を強めていきました。長慶に味方する者も現れ始め、三好家は単なる部将ではなくなっていきます。
石山本願寺も長慶を実力者として認め、元長の十三回忌法要の費用を長慶に送っているほどです。

こうしたゴタゴタの後、天文十八年(1549年)に晴元と将軍親子を京都から追い出すことに成功し、三好家が政権を握ることになりました。
長慶は寺社や公家とその所領を保護しながら戦ったためか、比較的長く京を掌握できています。朝廷にも接近し、献金や土塀修理なども行いました。
二回ほど暗殺されかけているため、安穏というわけでもありませんでしたが。

 

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松永久秀に翻弄されて身内を次々に失い……

長慶の全盛期だった永禄二年(1559年)には、織田信長が100人ほどの兵を率いて、将軍義輝へ謁見するため京都へやってきたことがあります。
2人の直接の対面はなかったようですが、おそらく信長は京を掌握するときの参考に、長慶の施策や評判を直接聞きたかったのでしょうね。
最終的に、長慶は河内(現・大阪府南部)や大和(現・奈良県)を制圧し、おおむね畿内全域を手中に収めています。面積的な意味で長慶に匹敵する同時代の戦国大名は、北条氏康くらいだろうといわれているほどです。

しかし、栄枯盛衰は世の習い。
一歩一歩進んできた長慶にも、永禄四年(1561年)に和泉を任せていた弟・十河一存が亡くなった頃から、不穏な気配が漂い始めました。
畠山家・六角家がこれを好機として、三好家にケンカを売ってきます。
このときは松永久秀らの働きにより、最終的に勝ちを収めたのですが、長慶自身の出馬がなかったとされています。体が弱っていたのでは……とも考えられますが、この頃長慶はまだ39歳。現代よりは寿命が短い時代とはいえ、弱る歳でもないような気がしますね。

また、傀儡にしていた晴元が亡くなったことで、長慶が政治の中枢にいる名目が失われてしまいました。
こうして三好家が中枢から崩れかけていることに感づいたのが、部下のはずの久秀です。

永禄七年(1564年)5月、長慶は弟の安宅冬康が謀反を企んでいると久秀に言われて、冬康を誅殺病身の上に、この時期は息子を含めた周辺の人物を続けて失っていたために、正常な判断力が薄れてしまっていたようです。
後に讒言であることは気づいたものの、時既に遅し。長慶の容態は悪くなる一方でした。

6月には養子で跡継ぎの義継(一存の子)が義輝らにあいさつをするため上洛したのですが、すぐ飯盛山城へとんぼ返りしています。そりゃ養父で当主が病気じゃ、京でのんびりしてるわけにもいきませんよね。
そして長慶はそのまま回復することなく、7月4日に42歳で亡くなりました。

冬康誅殺が、長慶自身の命も縮めてしまった……と見るのは、少々感傷的でしょうか。
松永久秀がそこまで見越していたとしたら……、いや、実際にありそうなだけに戦国はやっぱり殺伐とした時代ですね。

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長月 七紀・記

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参考:三好長慶/wikipedia

 





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