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鳥居強右衛門(長篠の戦い、影の主役的な一兵卒)/wikipediaより引用

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武田・上杉家 その日、歴史が動いた 徳川家

長篠の戦いで注目すべきは鳥居強右衛門の意地と織田信長の戦術眼だ!

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天正三年(1575年)の6月29日(旧暦では5月21日)、「鉄砲三段撃ち」で有名な長篠の戦いがありました。

3列に並んで順番に射撃する「三段撃ち」については一次資料(一番信用できそうな資料)に記載がないのでアヤシイらしいですが、なぜか明治時代に「織田信長がこんなスゴイことやって勝った戦なんだよ!」と教科書に載せてしまったため、いつの間にか一般人には史実と受け取られるようになってしまったのだとか。

政府がンなことやっていいんかいな……。というか最近は「段」というのは列ではなく「隊」を意味するので3グループが連携しての攻撃という興味深い説もでていて、コチラも興味深いすね。

それはさておき、本日はそのホントかウソかわからない戦術のおかげでほとんど忘れ去られてしまった、ある一兵士の活躍に注目してみたいと思います。厳密に言えばこの日の話ではないのですが、こまけぇこたぁいいんだよ。

そもそも「長篠の戦い」とは一体どんな戦だったのか? 鉄砲の話が有名すぎるせいで、実は全体像を把握していないという方も多いですよね。

本日は、合戦の前後から見て参りましょう。

山と川に囲まれた、峻険な場所にあった長篠城。こんなところから抜け出すだけで命がけでありましょう

 

長篠城を武田軍が攻め、信長・家康が迎撃

この戦は、長篠城という徳川家の城が武田勝頼に攻められたことから始まります。
もともと大きな城ではありませんし、城主として奥平信昌という武将が守っていましたが、精強で知られた武田軍を相手にするにはかなり分が悪い状態でした。

それでも三河武士らしいド根性で何とか持ちこたえていたのですが、業を煮やした武田軍は兵糧庫への焼き討ちを決行。まさに「腹が減っては戦はできぬ」状態に陥った長篠城一同は、どんどん士気を落としていきます。
「このままでは全員討死か餓死か……」と悩みに悩んだ信昌は、徳川家康への救援要請をすることにしました。

しかし、この時点で長篠城は武田軍にすっかり取り囲まれており、ただお使いに行くだけでも決死の覚悟が必要です。
数少ない部下を、生きて帰るどころか生きて家康の下にたどり着けるかどうかもわからないような難業に駆り立てなくてはいけないのか……と悩む信昌に、自ら名乗り出る者がありました。

それが鳥居強右衛門(すねえもん)という名の足軽(一般兵)でした。

 

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泳ぎが得意 敵に顔を知られてもいない

水泳が得意。身分の低さゆえに顔を知られていない。そんなことも考慮してか、信昌は鳥居強右衛門にこの任務を命じます。

強右衛門は、城から外に通じる水路と川を泳いで渡り、見事城の外へ脱出。次の日には家康のいる岡崎城までたどり着き、長篠城の窮状を伝え援軍要請の旨を伝えたといいますから、かなり頑健な体の持ち主だったのでしょう。
運の良いことに、強右衛門が岡崎城についたときには既に家康と信長の連合軍が出発の支度を整えていました。その数は武田軍の倍とも言われており、これを知った強右衛門は大いに喜びます。

信長も家康も「大変だったんだし、メシでも食ってちょっと休めよ。お前は俺らと一緒に行けばいいじゃん」(超訳)と言ったのですが、喜びすぎた強右衛門、「じゃあ一分一秒でも早く皆に伝えないと!お先に失礼します!!」(超訳)と、来たばかりの道を猛ダッシュで戻っていってしまいます。体力どうなってんだ。

そして長篠城の近くまで来ると、「無事援軍が来るぞ!」という知らせとしてのろし(煙)を上げました。予め「脱出に成功したとき、援軍要請に成功したときはのろしをあげる」ことになっていたからです。

しかし、もしかするとこれが彼の命を縮めてしまったかもしれません。
完全に包囲しているとはいえ、戦の真っ最中ですから武田軍も気を張っています。当然見張りもそこらじゅうにいたでしょう。城の中はともかく、外から援軍が来ないとは限りませんしね。
そこに日を置かず上げられた二回ののろし……怪しまないほうがおかしいというものです。

 

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命を賭して叫ぶ強右衛門「援軍は来るぞ!頑張れ!」

武田軍は長篠城周辺の道や農村を調べ始め、強右衛門は捕まってしまいました。
取調べによって援軍が来ることは白状してしまいましたが、彼はもう助からないことを悟って最後の意地を見せます。

勝頼に「援軍は来ない、と城に向かって叫べ!そうしたら命を助けてやろう」と命令されましたが、強右衛門は従いませんでした。それどころか逆に「二・三日で信長様と家康様がいらっしゃるぞ!それまで皆頑張れ!!」と叫んだのです。

勝頼としては「援軍が来ないことを知れば、長篠城は降伏するか士気がガタ落ちするだろう」と考えてこのように命じたのですが、強右衛門が真逆のことを叫んだおかげで計画が台無し。
激昂して強右衛門をその場で磔刑に処したといいます。

磔にされた鳥居強右衛門/wikipediaより引用

が、強右衛門の勇気ある行動と死に様を見た長篠城士はかえって士気を上げてしまい、勝頼の目論見は大幅に外れ、城が落ちることはついにありませんでした。
そして織田・徳川連合軍が到着した後、長篠の戦いが始まるのです。

 

ふんどしスタイルの絵になる

長篠の戦い本番を見る前に、鳥居強右衛門についてもう少々。

強右衛門の死は武田軍でも「あっぱれな忠義者」として語り伝えられました。
磔になる直前に話したとある武士は、その死に様を絵に描かせて旗指物(「俺が○○だ!」と戦場で主張するための旗とか飾り)として用いたといいます。趣味が悪いのか武士らしい思いやりなのか微妙なとこですが、当時の感覚ではきっと後者だったのでしょう。

さらに、強右衛門の子孫はあちらこちらで城勤めに精を出し、明治維新まで存続するばかりか現在まで血が続いているそうです。日本人で「ご先祖が武士」という家はけっこうあるでしょうが、確実に名前がわかる一兵卒の家が存続しているケースはそうそうないんじゃないでしょうか。すげえ。
強右衛門本人の武名だけでなく、代々それに恥じないよう心がけていたのでしょうね。

また、信長は強右衛門の勇気を称え、その妻の故郷に慰霊碑を建てさせています。家康じゃないんかい、とうツッコミはしないでおきましょう。
もしかしたら、家康が建てさせたものは所在がわからなくなったとかかもしれませんし(震え声)

愛知県新城市有海にある鳥居強右衛門磔死の碑/photo by 立花左近 wikipediaより引用

時代も国も全然違いますけど、強右衛門の最期は第二次大戦を描いた名画「ライフ・イズ・ビューティフル」の終盤にも似ているように思えます。
あんな感じで映画化してくれませんかね……。

 

さて、肝心の長篠の戦い本戦は?

さて、鳥居強右衛門の活躍によって長篠城が窮地から脱すると、この後、織田徳川連合軍と武田軍は「設楽原」で対峙します。
そこで両軍がぶつかるわけで、これは「設楽原の戦い」とも呼ばれております。

一般的な長篠の戦いとは、この設楽原の戦いのみに注目し、事前に起こっていた長篠城の攻防や鳥居強右衛門の一件は、世間ではあまり話題とされていないんですね。

歴史の授業でも教わるのは、この設楽原にて「鉄砲」の織田徳川連合軍(4万)に対し、「騎馬」の武田軍(1.5万)が無謀に突っ込んで次々に討ち取られた、このとき織田信長が駆使した作戦が「三段撃ち」である――という説明でしょう。

イラスト・富永商太

いかにも天才・織田信長!という人物像で収まりがよいですが、前述したように「3列が次々に入れ替わって一斉射撃する」という三段撃ちは、現在の研究ではナシとされてます。
スペックが低く、轟音なりひびく当時の鉄砲では現実的に無理でしょってなワケです。

ただし、戦場へ持ち込まれた鉄砲が大量だったというのは、間違いないと見られております。
説によっては1,000丁程度というものから、3,000丁というものまで。いずれにせよ信長の財力がハンパじゃなかったことであるわけですが、さりとて、
「やっぱり鉄砲があったから勝てたんじゃん!」
というのは、いささか単純でして。

この合戦の勝敗を決定づけたのは、事前の準備だったと目されております。

実は織田信長は、このとき武田軍がやってくる進路に対して頑丈な馬防柵を設置し、さらには堀を作るなどして陣を固め、さながら簡易的山城を築いておりました。
普通、城に立て籠もる敵を倒すには3倍の兵力が必要などと言われます。
ところが両軍の兵力は、織田徳川の方が圧倒的に多い。こんな状況で、武田軍が突っ込んでいけば、結果は火を見るより明らかです。

ではなぜ信長は、設楽原にそんな強固な防備を作ることができたのか?
と言いますと、現地は窪んだ地形で出来ておりまして、武田勝頼たちに見えぬ位置に防御陣を作り、軍勢を配することが可能だったのです。

長篠の戦い(設楽原)古戦場に設置された馬防柵。向かって左側が織田・徳川軍で、右側の丘陵に武田軍が布陣

 

やっぱり勝頼は愚将だったの? 結論は否

後世の人間からすると、歴史にはどうにも理解できない、不思議でならないことがあります。
今回の場合、織田信長がカチコチに固めた陣へ、無謀な突撃を敢行した武田勝頼がそうなるでしょう。

なぜ、そんな強固な山城へ突撃したのか?
武田勝頼はやっぱり愚将だったのか?

武田勝頼/wikipediaより引用

武田ファンの方でしたら、思わずそんなこともつぶやきたくなるでしょうか。
ヘタをすれば「勝頼は、勝ち目もないのに意固地になって、無謀な突撃をしやがった」なんてことも囁かれたりしますが、いくら彼が、信玄の代からの重臣たちと折り合いが悪くても、わざわざ自殺行為を行うのはあまりに不条理です。それこそ後の歴史を知ってる者たちの思い込みでしょう。

ここで考えなければならない問題は、「鉄砲隊に対する有効な戦術は何だったのか?」ということです。

実は当時、鉄砲隊に対して脚の速い騎馬隊を突撃させることは、一つの作戦として認知されておりました。
もちろん突撃の最中に撃たれてしまう騎馬と武者はおりますが、当時の火縄銃は命中率も低く、うまくいけば鉄砲隊の一角を崩すことができ、十分に勝算もあったのです。
武田軍の騎馬隊はヤバイぞ――と『信長公記』にも記されるほどの騎馬隊を勝頼は持っているのですから、彼としてもその強みを活かしただけのことでしょう。

しかし、このときばかりは織田信長の方が上手でした。
前述のとおり、普通の野戦と違って、織田徳川の防御は完璧。馬の機動力を奪うのに十分な防御力だったのです。

長篠合戦図屏風/wikipediaより引用

ならばさっさと退却すればよいではないか?
まさに「逃げるが勝ち」でありますが、実はその選択肢も勝頼には残されておりませんでした。
このとき織田信長は事前に別働隊(酒井忠次や信長の馬廻り衆など)を進軍させて、長篠城の救援に成功。武田軍の背後をとっており、勝頼は、もはや前に出るしかない苦境だったと目されております。

要は武田軍は、追い込まれていたんですね。
そういう意味では、最初から信長の作戦勝ちだったとも言えましょう。

結果、武田の騎馬隊は幾度も突撃を繰り返し、赤備えの山県昌景や無傷の鬼美濃・馬場信春、真田信綱(真田昌幸の兄)など、当代きっての武将たちが命を落としていくのです(退却時に命を落とした者も多数と伝わります)。

状況と結果だけを考えれば、信長の計算がまるで神がかった展開でありまして、鉄砲の三段撃ちなんかより、こうした戦術に着目すべきかもしれません。

ちなみにこのとき、武田勝頼秘蔵の駿馬が戦場に置き去りにされて、信長のものとなりました。この後も武田家はスグに滅びるようなことはありませんでしたが、そこには勝者と敗者の悲しい現実があったのです。

馬防柵の背後にある茶臼山に設置された織田信長の本陣。現在は茶臼山稲荷神社が建っている

 

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/長篠の戦 織田信長

 





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