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飛鳥・奈良・平安時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

平安時代の女官ってどんな役割だったの? 尚侍・典侍・掌侍や女孺・女蔵人などを解説

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皇后や中宮、あるいは御息所の差ってご存知ですか?

紫式部清少納言に興味をお持ちの方は「YES!」と即答かもしれませんが、一般的には、いやぁ、なんとなく雰囲気しかわからんなぁ……という印象かもしれません。

皇后や中宮は、「天皇の后妃(奥様)」の呼び名で、ポジションも微妙に異なっておりました。
以下の記事に詳細がございますのでよろしければご確認いただきたいのですが、本日は、同じように「ややこしい」印象の「女官」について整理しておきたいと思います。

女官とは、文字通り「女性の官僚(役人)」という意味でして。
これも、ちょいちょい耳にする機会はありながら、でも実際にはキッチリとは把握できていない項目ではないでしょうか。

皇后・中宮・女御・御息所・更衣・女院をスッキリ整理!天皇の后妃の法則

 

江戸時代の大奥みたいなもので

飛鳥~平安時代に整備・発展を遂げた律令下では、女性を管理する役所がありました。

内侍司(ないしし)と言います。

「女性の役人=女官」が所属する機関で、イメージは江戸時代の大奥に少し似ています。
大奥はいわゆる「女の戦い」の印象が強いですが、実際は「御年寄」などの役職が設けられ、序列と役割がありました。

内侍司もそんな感じです。

こちらは奈良時代からあり、平安時代に「儀礼」の整備などで仕事が激増、臨時の役職を増やしたりするなどして対応してきました。

 

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尚侍is NO.1 実務はNo.2の典侍に任せ

当初は女性の役人という性格が強かった内侍司。
基本的には、天皇の事務仕事を補助したり、祭事に携わったりするのが役割ですが、やがて「将来の皇后候補養成所」という性質も出てきます。

特に長官である尚侍(ないしのかみ)はその傾向が強い役職でした。

そのため、彼女らに代わって実務を請け負っていたのが、内侍司のNo.2である典侍(ないしのすけ/てんじ)です。
彼女らが実質的長官として実際にオシゴトを取り仕切っておりました。

もちろん両名だけでは終わりません。

典侍の下には掌侍(ないしのじょう)、そして掌侍は女蔵人(にょくろうど)・女孺(にょじゅ)を束ねています。

では「よく聞く“女房”って何なの?(´・ω・`)」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。

【参考:内侍司(ないしし)の序列】

長官:尚侍(ないしのかみ)定員2名

No.2:典侍(ないしのすけ/てんじ)定員4名

No.3:掌侍(ないしのじょう)定員4名※追加で6名

女孺(にょじゅ)定員100名
女蔵人(にょくろうど)
命婦(みょうぶ)
東豎子(あずまわらわ)

 

身分の高い人に仕えていた女性使用人を女房と呼ぶ

女房とは、公的・私的を問わず、身分の高い人に仕えていた「女性使用人全般」のことを指します。

宮中においての女房が公的な身分を持っていたのか、あくまで后妃たちの私的な使用人だったのか……これについては、まだ専門家の間でも見解が分かれているようで、ややこしや~。

というのも、女房は、
「元々宮中に仕えていて、後から入ってきた后妃に配置換えされた人」
なのか
「后妃が入内する際に実家からついてきた(あるいは後日実家からやってきた)人」
なのか、明確に区別されていたかどうかが不明なのです。

例えば、紫式部の娘・大弐三位(だいにのさんみ)は母と同じく藤原摂関家の繋がりで藤原彰子に仕えました。
が、後に後冷泉天皇の乳母になったため、その即位後に三位を授かってから「大弐三位」と呼ばれるようになっています。
私的な使用人が公的な立場をもらったパターンですね。

平安時代における皇室の取り決めは、とても厳格なイメージでしたが、結構テキトーというか、おおらかな感じがしますね。

内侍司の女性が「皇后候補」として注目されるようになると、そのトップである尚侍は、ほぼ藤原氏の女性しかなれませんでした。
まぁ、それが権力というやつですね。

ただし、鎌倉時代になると、任命すらされなくなっていきます。

 

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清少納言も枕草子の中で言ってた!

これに対して、No.2の「典侍」以下は、公家であればどの家でも構わなかったようです。
特に典侍の場合、有職故実に詳しい人や、音楽・和歌など芸術を得意としていれば、三位という高い位と、年給をもらえることもあったとか。

現代でいえばバリキャリというやつで、宮中の花形。
清少納言も、枕草子の中で
「きちんとした家の娘なら、典侍などとしてしばらく宮中に勤めさせ、世の中を見せたほうがいいと思う」
という感じのことを書いています。

また、実務の責任者である典侍と、そのすぐ下の部下である掌侍を合わせて「内侍」と呼ぶこともあります。

天皇が出御する際に剣を捧げ持つ役や、祭礼の使者など、祭祀や仏事に関わる幅広い仕事をこなしました。
また、三種の神器の一つ・八咫の鏡を守護する役目も担っています。

儀式以外の普段の日には、天皇・皇后の身の回りの世話や、下賜・献上品の管理、外に住んでいる皇族が天皇・皇后を訪ねてきたときの取次などを行っていました。
後宮の何でも屋さんというか、西洋でいうところの執事(バトラー)やメイド長(ハウスキーパー)などがイメージとして近いかもしれませんね。

ちなみに、掌侍の筆頭にあたる女性を「勾当内侍(こうとうのないし)」または「長橋局(ながはしのつぼね)」と呼びます。
勾当内侍というと、新田義貞に愛された女性の名として有名ですが、本来は個人名ではなく役職名なんですね。

 

実務女官の役割を細かく見てみよう

尚侍・典侍・掌侍までがいわゆる要職。
その下にもたくさんの女官がいましたが、ここでは代表的なものを見ておきましょう。

・女孺(にょじゅ・にょうじゅ)

内侍司の下級女官で、定員は100名という大所帯でした。
掃除などの雑務一般を担当していましたが、稀に出世して典侍などになる者もいたようです。
奈良時代の宇佐八幡宮神託事件で処罰された和気広虫(わけ の ひろむし)などが、女孺出身で出世した一例です。

・命婦(みょうぶ)

各種神事を担当する女官で、儀式ごとに名称が細かく分かれていました。
摂関時代には后妃の女房の通称として「命婦」がよく使われています。
源氏物語にも、藤壺の宮に光源氏を引き合わせた王命婦、末摘花の君の話をした大輔の命婦など、何人か出てきますね。

・女蔵人(にょくろうど)

裁縫や掃除、明かりの管理、食事の給仕などを行う人です。洋風にいえばメイドみたいなものと考えればよいかと。
紫式部日記で、宮中に泥棒が入った際「女蔵人を呼んできて!」と言っているシーンがありまして。
日頃から后妃の側近くの女房たちといろいろなやり取りがあったことがわかります。

・東豎子(あずまわらわ)

姫大夫(ひめもうちぎみ)とも呼びます。さらに、これが訛ったとされる「姫松」の呼称もありました。
「三つ子の女子が天皇を守る」という伝承から、当初は定員が三人だったといわれていますが、確たる史料は今のところ見つかっていないようです。
この「守る」は物理的・武力的な意味だったらしく、東豎子は特定の男性の名前を使ったり、行幸の際には男性役人の衣装を来て馬に乗り、お供をしたりしていました。
普段の日は女官の姿をしていたので、東豎子がずっと男装をしていたわけではありません。オス◯ルとは違うんですね。

 

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「宮仕えした女性はすれっからしになる」とは!?

こんな感じでさまざまな女性が内裏で暮らしていました。
宿下がり(帰省)などで留守にすることもあるので、常に全員が揃っていたとは限りませんが、かなりの人数がいたと考えていいでしょう。

后妃は別として、女官や女房の多くは男性の役人ともよく顔を合わせます。
そのため
「宮仕えした女性はすれっからしになる」
とも言われて、当時はあまり好ましくみられていませんでした。なんだか一昔前の価値観と似ていますね。

しかしそれは、男女が宮中という同じ職場で、お互いにうまくやれていた証左でもあるような気がします。
もちろん、うまくいくときばかりではなかったにしても。

平安時代で宮中というと、政略結婚や恋愛の話になりがちですが、こうした職場をもっとクローズアップした本でもあれば人気になりそうですね。
マンガで読んでみたいなぁ。

長月 七紀・記




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【参考】国史大辞典「内侍司」ほか

 



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