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吾妻鏡(1626年江戸時代の写本)/国立国会図書館蔵

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

吾妻鏡は武士で最初・鎌倉幕府の歴史書なれど2つの欠点あってもどかしい

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鎌倉時代の文化史には、いろいろな書物が出てきます。

随筆では『方丈記』と『徒然草』。
仏教関連では『正法眼蔵』や『立正安国論』など。

そして歴史書では『吾妻鏡』や『愚管抄』あたりが受験でも問われやすいところでしょうか。

さてこの中で、最も注目すべき一冊を挙げよと言われたら、アナタは何に注目されますか?

私は、吾妻鏡です。

なぜなら、
「武士が初めて、自ら作った歴史の記録」
という大きな特徴を有しているからであります。

ただし、何事も最初のトライには失敗がつきもの。
吾妻鏡は大きな存在意義を持っていますが、同時にいくつかの欠点も有しておりました。

今回はこの書物の成り立ちについて、少し詳しくみていきましょう。

ぶっちゃけ、内容については後述する大きな欠点のために、むしろ吾妻鏡を読まないほうが鎌倉時代の歴史はわかりやすいような気がしますが……。

 

東鑑とも表記します

まずは「吾妻鏡」というタイトルの背景からいきましょう。

実は「東鑑」とも書きます。
が、他の鏡物(大鏡・今鏡・水鏡・増鏡)と区別しやすいからなのか。三文字表記のほうが多い気がしますね。

吾妻鏡(1661年江戸時代の写本)/国立国会図書館蔵

「吾妻」も「東」も、東日本のこと。
その由来は、鎌倉時代からしてもはるか昔、神代の時代にありました。

日本神話の英雄として名高い、かのヤマトタケルが、東国遠征の際、海の神に邪魔されて船が進めなくなったことがあります。
このとき、同行していた妃・弟橘比売(おとたちばなひめ)が自ら生贄となって海を鎮め、ヤマトタケルは先に進むことができました。

ヤマトタケルは彼女のことを本当に深く愛していたようで、このことを後々まで悔やんだとされています。

そして東国の神々平定が終わった後、とある山から東国を見渡して
「吾妻はや」(=わが妻よ)
とつぶやいた……のだそうで。

それから、東日本を「吾妻」=「東」と呼ぶようになった、とされています。

京都の貴族たちは、後々に至るまで東日本を「野蛮人だらけの地域」とみなしていましたが、その名の由来は、かなりの歴史を持っていたんですね。

 

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鎌倉幕府の公式歴史書

では、吾妻鏡そのもののお話へ移りましょう。

この本は、ひとことで言うと「鎌倉幕府の公式歴史書」です。

しかし、元寇のドタバタで編纂が中断し、その後はそれどころじゃなくなって放り出されてしまいました。
結果、「日本史上初の本土侵略」という大事件である元寇についての記録がすっぽ抜ける……という、歴史家涙目な事態にもなっています。

まあ、当時の武士にどのくらい「記録をつけることの重要さ」が理解できていたのかも謎ですし、仕方のない面もありますね。

そんなわけで、吾妻鏡は治承四年(1180年)の源氏挙兵に始まって、文永三年(1266年)に六代将軍・宗尊親王が京都に帰ったところで終わっています。
そのうち真ん中の12年ほどが抜けているのですが……途中で散逸したのか、元々ないのかはわかっていません。

また、全部で何巻あったのかもハッキリしていないようです。
今後見つかったら世紀の大発見でしょう。

形式は、時系列順に出来事を記していく「編年体」となっています。

近い時代に成立したと考えられる「水鏡」が編年体ですので、それを手本にしたのかもしれません。水鏡の成立から吾妻鏡の成立まで、だいたい100年ぐらい経っていますから、幕府の方でも水鏡の写本は手に入ったでしょうし。

ちなみに、これは「元寇が終わって20~30年後くらいに吾妻鏡が成立した」ということにもなります。

鎌倉幕府の滅亡まであと30年あるかないか、というタイミング。
この頃は恩賞問題に加え、御家人と御内人の対立が激化していたあたりですから、吾妻鏡の編纂が続けられなくなったのもむべなるかな、という感じがしますね。

 

「幕府の記録」だが公家の日記等も参考に

吾妻鏡の記述のうち、鎌倉周辺で起きたことは、直接記録したと思われます。

しかし、それ以外の地域で起きたこと、例えば朝廷の支配圏である近畿や、それより西の地域については、あまり書かれていません。
そうした事情に伴い、御家人でない武士のことや、公家に関する記述もごくわずかです。

吾妻鏡はあくまで「幕府の記録」であって、「鎌倉時代の日本の記録」ではない……というわけです。

参考資料としては、公家の日記や寺社の記録、歴史物語も使われました。

例えば、
・九条兼実の日記である「玉葉」
・藤原定家の日記「明月記」
延暦寺の記録「天台座主記」
平家物語とその異本とされる「源平盛衰記」
などです。

これらについては全てが引用されたわけではなく、幕府と関わりの深いところだけが使われたと考えられています。

一つ例を挙げますと、藤原定家の「明月記」について。
本日記には、三代将軍・源実朝が藤原定家の歌の弟子だったことから使われたとされているのですが、この師弟関係があった頃の記述しか使われていません。

藤原定家/wikipediaより引用

定家が当時屈指の歌人であるためか、明月記には難解な文が多いので、吾妻鏡を編纂した武士が理解しにくかった可能性もありますね。
明月記は定家の自筆本が残っていて、文化遺産オンラインで一部を見ることができるのですが、結構クセが強い感のある字ですし。

もしくは、幕府側が手に入れた写本が粗雑なものだった……なんてこともあったのかもしれません。
「成績がいい人のノートを借りたら、案外悪筆で読めなかった」みたいな?

歴史を後世から見ていると忘れがちですが、公家も武士も人間ですからね。

 

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年月の記載ミスと隠蔽工作の形跡

吾妻鏡には大きく二つの欠点があります。

一つは、誤記と思しき年月の記載ミスがあることです。
歴史書としては致命的ですが、当時の武士はやっと文字の読み書きができる人が多数派になったような時期なので、素でやってる可能性もありますね。

二つめは、北条氏にとって都合の悪い点を隠蔽した形跡があるということです。
これも歴史書としてはかなりの欠点ですが、いかんせん他の記録が乏しいというか、まとまっていないので、吾妻鏡以外に基礎史料になりそうなものがない……というのが正直なところのようです。

吾妻鏡目次・北条家の面々が並ぶ/wikipediaより引用

元寇が終わってから鎌倉幕府滅亡までの経緯について、教科書では
「恩賞がなかったので幕府に激怒した御家人がブチ切れました」(超訳)
という感じにすっ飛ばされているのは、おそらくこのためだと思われます。

討幕に関わった武士個々人や、地域の歴史を調べていくと、多少わかるんですけども。
教科書の編纂にも膨大な時間がかかりますから、鎌倉時代の終盤にだけ手間を掛けているわけにもいかない事情がありそうです。

そんなわけで、吾妻鏡は「武士が自らの歴史を自らの手で記した、初めての長期記録」という点に意義があるということになるのです。

 

途中ですっぽ抜けたりするのはなぜ?

公家の場合は家の歴史が長いことに加え、有職故実、つまり遠い昔の前例をどのくらい知っているかによって家運が決まるので、朝廷の記録以外にその家ごとの記録をつけることも珍しくありません。

その最たるものが「日記の家」と呼ばれる、代々の当主が日記をつけていた家です。

明月記は「定家自身が出世に苦労したので、日記の家になって少しでも子孫をラクにしたい……と考えた」から書かれたといわれています。
日記が子孫の出世に関わる、というのは現代人にとってはなかなか想像しにくいですが、公家は公家でそういう苦労があったんですね。

逆にいうと、鎌倉時代の武士はそもそも
「前例を口実にして、自分たちの家が有利になるような方針をゴリ押しする」
という概念や必要性がなかったために、吾妻鏡ですら途中がすっぽ抜けてたり、隠蔽がある……ということにもなります。

編纂が始まった頃は、武士の中で文字の読み書きができる人がやっと多数派になったあたりでしょうし。

これまた乱暴な言い方をすれば、
「常用漢字をやっと一通り書けるようになった小学生が、頑張って地域の歴史をまとめた自由研究」
みたいな感じでしょうか。

ゆえに、もっと時代が下ると、武士の中にも先例を重んじる風潮が生まれてきます。

武士が政治の中枢にいた期間は、鎌倉時代から江戸時代。
その最初である鎌倉時代の武士は、人間で例えれば小中学生というところではないでしょうか。

吾妻鏡の特徴を長短併せて考えてみると、武士が為政者として少しずつステップアップしていった感がありますね。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典「吾妻鏡」
吾妻鏡/wikipedia

 





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