歴史戦国でワクワクしたい!

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

参勤交代(園部藩・南丹市文化博物館蔵)/wikipediaより引用

日本史オモシロ参考書 江戸時代 その日、歴史が動いた

参勤交代と大名行列をスッキリ解説!期間は?妻子は?経済的インパクトも大だった

投稿日:

江戸時代で、パッと思いつく【制度】とは何ぞや?

そんな問いに真っ先に出てくる答えは
鎖国
参勤交代
の2つではないでしょうか。

外交と内政に関する違いはあれど、両政策がこの時代に与えたインパクトはディープ!

今回は、大名行列とセットで語られることの多い参勤交代をおさらいしてみましょう。

 

鎌倉の頃から原型はあった

参勤交代といえば江戸幕府のイメージが大です。
が、原型といえる状況は鎌倉幕府の頃からありました。

鎌倉時代の初期においては有力な御家人ほど
「重役ほど鎌倉住まいが多く、国元は親戚や家臣に任せる」
という状況が多かったようです。

もしも幕府から距離を置いてしまうと、他の御家人(特に北条氏)に潰されかねなかったというマイナス面も影響しています。

まぁ、いくら鎌倉に居ても、北条氏がアレコレやって潰された御家人が多いんですけど……。
その辺は以下のリンクに関連記事が多々ありますので、よろしければご参照ください。

北条泰時/wikipediaより引用

【関連記事】
鎌倉武士 北条時頼 北条泰時 北条義時 御家人 守護地頭

では鎌倉の次、室町時代の場合は?

幕政に参与するため守護大名が自ら京都に定住したり、短いスパンで上方と地元を行き来したりという状況がほとんど。

「将軍の許可がなければ帰国できない」
という決まりもあり、これを義務&強化しようとしたのが、さらに時代が下って織田信長豊臣秀吉です。

◆有力者は基本的に政治の中心地に住むこと

特に秀吉は、大名やその家臣の妻子を上方へ住まわせ、人質としました。
関が原のときのゴタゴタは、そうした経過があって起きたものです。

では、本題の江戸時代へ向かいましょう。

 

スポンサーリンク

参勤交代の基本

江戸幕府の場合、秀吉の人質確保といった理由に加え、さらに以下のような目的を付加して参勤交代を明確に定義づけました。
あらため定義を確認してみましょう。

・徳川との主従関係を確立
・藩主は1年間を江戸で過ごし、次の1年間は地元在住のサイクルを繰り返す
・正室と世継ぎは江戸に常住
→大名が国元に財を蓄え、反乱することを防ぐ

かくしてカオスだった戦国以前の反省を活かし、
「幕府の運営は将軍と幕閣だけが行う」
という体制も築きました。

家康の頃には「豊臣家が既に天下人でないことを示す」という目的も大きかったんですね。

慶長十六年(1611年)に、家康が豊臣秀頼と京都二条城で会見したのもその一環です。一応「会見」ということになっていますが、時勢の読める人であれば悟ったでしょう。
事実、これ以降、豊臣家へ参勤する大名はほぼいなくなりました。

【徳川との主従関係を確立】したワケです。

江戸城/wikipediaより引用

 

大大名に対しては自ら出迎えも

とはいえ、まだ戦国の気風が色濃い時代には、幕府も慎重です。
江戸幕府は、各大名に江戸で滞在するための屋敷と土地の他に、刀剣や書画だけでなく、鷹、馬、米なども下賜しました。

エサとしては安いものの、各地の大名たちも拒否しようもんなら「さては謀反を企んでいるな! 成敗!」みたいな流れで叩き潰されるのは明白です。大人しく受け取るしかありませんでした。

ちなみに、大大名に対しては【鷹狩】を名目として、将軍が途中まで出迎えに行くこともありました。

東海道→高輪御殿
中仙道→白山御殿
奥州街道→小菅御殿
といったように、大体の場所も決まっていたほどです。

大大名に反乱を起こされるとヤバイので、名目だけでも優遇しておこうというわけです。

「そんなことで、大名がおとなしく引き下がるの?」
現代人の感覚だと、そんな風に思ってしまいますが、この時代の【体面】に関する価値観は、我々の想像を絶するところがあります。

体面を保たせようとする相手を無下に扱えば、それがそのまま跳ね返ってくるし、相応におもてなしすれば互いにwin-win。
地元での小競り合い程度なら力尽くで押さえられるかもしれませんが、幕府や全国の大名の場合にはそうもいきません。

穏便にコトを進める上で必要だったのですね。

 

スポンサーリンク

1615年の武家諸法度で法的整備

正式な法律としては、元和元年(1615年)の『武家諸法度』が起点です。

大坂夏の陣後に出され、参勤交代に関する文言が出現。
その後、いったん削除されたり、新たに書き直されたりして、寛永十二年(1635年)版の武家諸法度で明文化されました。

ここで
「各地の大名は、毎年四月交代で一年間江戸に住むこと」
が義務付けられています。

しかし、立場や職務上の理由で、毎年交代ではない大名もいました。

例えば、各地の外交窓口です。

・対馬の宗氏
・蝦夷地の松前氏
・長崎警備担当の黒田・鍋島両氏

対馬の宗氏は三年に一度で、蝦夷地の松前氏は六年に一度、黒田・鍋島両氏が長崎警備との関係で11月に参府・2月に就封など、場合によって加減されておりました。

また、「定府」と言って、そもそも参勤交代がない大名もいました。

例えば水戸徳川家は、将軍家のご意見番という名目があったので、水戸との行き来は基本的にしません。
幕府の老中・若年寄・奉行なども領地は持っていますが、定府とされていたため、国元に行くことは基本的にありませんでした。

 

【大名行列】の規則も1615年から事細かに

参勤交代といえば、制度そのものよりも
【大名行列】
の方が印象深いかもしれません。

大名の前後に大勢の家臣が並んで歩き、ゾロゾロ、ゾロゾロ……。
元々は、戦のときに行軍を整えたのが始まりで、江戸時代には「大名が参勤交代するときの形式」になりました。

参勤交代/wikipediaより引用

一歩間違えば、単なる行列ではなくガチの行軍になってしまうものです。
藩主を護衛するための武器や兵は必要にしても、ある程度の制限は設けなければなりません。

そこで幕府は、元和元年(1615年)から、行列についての規則も事細かに定めました。

基本的には石高が多ければ多いほど格式が高く、大きな藩ほど大行列に――ざっとこんな感じで。

加賀の前田氏で2500人規模
薩摩の島津氏で1200人規模

もちろん全てが武士ではなく、また、本当にエライ人達は藩主以下数十名だけです。

藩によっては、体裁を保つため領内だけ周辺の住民を雇って水増ししたり、江戸に入る直前にも人を雇ったりしていたようです。
こうすると、道中の費用がいくらか抑えられますからね。

映画『超高速!参勤交代』(amazon)でも、そんなシーンがありました。




スポンサーリンク


雇われる側からしても臨時収入になるので、悪い話でもなかったとか。
現代でいえば、ドラマのエキストラに一日だけ出演するとか、そんな感じでしょうか。

次のページへ >

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




×

-日本史オモシロ参考書, 江戸時代, その日、歴史が動いた

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2018 All Rights Reserved.