児玉源太郎/国立国会図書館蔵

ゴールデンカムイ特集 明治・大正・昭和時代 その日、歴史が動いた

謙虚だった天才・児玉源太郎~日露戦争の勝利は彼の貢献度が大きい?

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嘉永五年(1852年)2月25日は児玉源太郎の誕生日です。
教科書に出てこないのであまり著名な方ではありませんかね?

日露戦争を早めに終わらせることができたのは、実はこの人の考えによるもの。
名前でググったときに「天才」という関連用語が出てくるのは、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の影響かもしれません。

生まれながらの天才というような扱いになっていたのです。

しかし、少年時代にはかなりの苦労もしておりました。

 

徳山藩で中級武士の家に生まれ

児玉家は、徳山藩(山口県周南市)で中級武士の家。
この藩は規模が小さ目な、長州藩の支藩であり、いわば分家のようなものです。

長男だった源太郎は、順当に行けばいずれ児玉家の当主となって藩に仕えていたのでしょう。
ところが、わずか5歳のときに父親と死別という不運に見舞われます。

さすがに5歳で家督を継ぐわけにも行かず、姉婿が一度は当主になりました。
この姉婿が佐幕派に惨殺されてしまい、児玉家は収入を失って貧乏生活を余儀なくされます。

それを何とか乗り切り、成長した児玉は戊辰戦争最後の一幕・箱館(函館)戦争で初陣を果たしました。

箱館戦争の様子を描いた麦叢録/函館市中央図書館蔵

 

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「児玉がいる限り、日本が勝つだろう」

箱館戦争において、武功に関する記録は特にありません。
その後、陸軍に入り、軍人としての道を着実に進みました。

例えば、1877年の西南戦争にも参加。
明治時代初期において、不平士族の反乱を鎮圧するうちに経験を積み、いつしか軍の中でもかなりの期待を寄せられるようになっていきます。

まだ若く名門の出身でもないのに「児玉は無事か」という電報を送られたとか、日露戦争の時にはクレメンス・メッケルに「児玉がいる限り、日本が勝つだろう」とまで言われたとか、普通の人だったら天狗になりそうなほどのベタ褒めを受けています。

しかし、児玉にはそういうことがありませんでした。

実家の困窮のためきちんとした教育を受けていないことによる引け目があったのかもしれません。
当時としても男性としてはかなり小柄なほう(150~155cm)だったことも無関係ではないでしょう。

具体的な理由は本人のみぞ知るところですが、彼が他人の欠点や失敗について咎め立てるようなことがなかったのは、自分にも引け目があったからかもしれません。

 

日露戦争の立役者

それが最も顕著に出たのが日露戦争のときです。

このとき児玉は内務大臣だったのですが、対ロシア作戦を立てていた人が急死してしまい、大山巌に請われたため大臣を辞めてまで参謀次長についています。
旧軍で降格を了承したのは児玉ただ一人といいますから、身分の高さよりも「必要とされているところに行く」ことを重視していたのでしょう。

また、大山とは個人的に息も合ったようです。

苦戦中に大山が「児玉さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」と惚けたことを言ったおかげで空気が丸くなったとか、妻・大山捨松が「大山が一番好きなのは、私ではなくて児玉さんですわ」と評するほどです。

大山巌/wikipediaより引用

乃木希典とも浅からぬ縁があります。

児玉と乃木は同郷であり、少なくとも西南戦争の時には戦友でした。
日露戦争の時には30年近い付き合いだったということになります。

生来謹厳で責任感の強い乃木は、西南戦争のときにも失敗で自責の念を感じ、切腹しようとしたことがあるのですが、これを止めたのが児玉です。

旅順要塞での戦いに関する被害の大きさについて、国民や陸軍内から乃木に対する不信や非難の声が高まったとき「乃木でなければ旅順は落とせない」と擁護したのも児玉です。

後々児玉が亡くなったとき、乃木は大雨の中ずっと棺に付き添っていたそうです。
終生、お互いに良い戦友と思っていたのでしょう。

 

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講和を進めた「軍功」

日露戦争の主な戦闘については別記事で取り上げますが、最後の会戦(大規模な陸での戦闘)である【奉天会戦】で日本軍が勝ったとき、真っ先に講和の準備を始めたのは児玉でした。

一度勝ったからまた勝てるだろうと楽観視する本土の軍人達に、
「今講和しなければ負ける、ぐずぐずしている暇はない!」
と主張したのです。

ロシア軍の規模の大きさやシベリア鉄道で迅速に次の部隊や物資が補給されること。
講和交渉にかかる期間。
日本側の戦費や死傷者数の大きさなどを考えてのことだったのでしょう。

それでもぐずる陸軍でしたが、海軍大臣の山本権兵衛が児玉に同意したことで、ようやく講和への道を探り始めます。

日本の勝利が決定的になったことで有名な日本海海戦は奉天会戦の後ですが、その間、約2ヶ月空いており、ポーツマス条約で講和が決まったのは日本海海戦からさらに約3ヶ月後のことです。

つまり、もし講和を始めたのが日本海海戦の後だったら、また陸か海かで同規模の戦闘が起き、日本は戦費や兵数の不足によって押し切られ、負けていたかもしれません。

そうなった場合、おそらく朝鮮半島はおろか日本のどこかを割譲していた可能性もなくはないでしょう。ああおそロシア。

ですので、ある意味児玉のおかげで日露戦争に勝てたということもできるのです。

撤退中のロシア軍/wikipediaより引用

 

日本のナポレオン!→本人否定

とはいえ、児玉本人はたいした功績とも思っていなかった節があります。
晩年、浅草で日露戦争に関する展示が行われた際のエピソードに、こんなものがあるのです。

展示会場で、児玉を同じく小柄で優秀な軍人として有名なナポレオンになぞらえ「児玉参謀長は日本のナポレオンに違いない!」というようなことを言っていた若い軍人たちがいた。
そのとき、背後から「児玉はそんなにたいした人間ではありませんよ」とささやく声が聞こえた。

ムッとした軍人は振り返りながら「なんて失礼なことを言うんだ!」と反論したら、そこにいたのが他ならぬ児玉本人だったのですからビックリ仰天。
見事ドッキリを成功させた児玉はご満悦だった――。

背後から囁くなんて仕事人か乙女ゲーの男性キャラでもなきゃやらないと思うんですが、さすが児玉さん!おれたちにできないことを(ry

この手の自虐ジョークは昔から言っていたそうで、ほぼ成り上がり者だった児玉が身分の上下問わず慕われたのはこういうところからきていたのかもしれません。

そういう面を知ると、勲章をたくさんつけた軍服姿の写真も何だか愛嬌があるように見えてくるから不思議なもの。
お偉いさんほどユーモアを持つのが大切ということですかね。

長月七紀・記




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【参考】
国史大辞典
児玉源太郎/wikipedia
日露戦争/wikipedia

 



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