マラソンランナーにとって、スタミナや水分補給と同じぐらいに大切なランニングシューズ。
大河ドラマ『いだてん』では、ストックホルム五輪大会を走る金栗四三の苦闘が描かれました。
予選から足袋を履いて走ったものの、途中でボロボロになってしまい、ついには「ないほうがマシだ!」と叫んでしまったことも……。
以降、金栗は、播磨屋と共に足袋の改良に挑み、その成果が現れたのが1936年ベルリン五輪です。
金メダリスト孫基禎、銅メダリスト南昇竜の足下には、ハリマヤの足袋が履かれていました。
この二人がストックホルム五輪の開催年(1912年)生まれというのも感慨深いですが、驚くべきはそれから半世紀後の1960年ローマ五輪大会です。
マラソン競技を制した金メダリストは、なんと裸足——。
彼こそが伝説のランナー・アベベでした。
標高3千メートルの村で生まれたアベベ
1932年8月7日、エチオピア・ショア州(現オロミア州のセミエン・ショア地区)。
その小村にあるデュノバ・ジョル村にアベベ・ビキラは誕生しました。
エチオピアといえば、ギリシャ神話におけるアンドロメダーの生まれた国です。
つまりアンドロメダーは本来黒人であるはずなのですが、西洋美術では白人の姿で描かれました。
ホワイトウォッシングの典型例です。
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アベベは、小作農の二男でした。
山羊の乳を飲み、野山を駆け巡る日々。
そんな暮らしの中、キジやウサギを素早く捕らえることのできる高い身体能力が培われていきます。
学校に通うこともなく、自宅から10キロ離れた農場へ向かい家業を手伝う少年期でした。
遊び友達の間でも、アベベの身体能力は話題でした。
当時、彼らの間で人気の遊びはフットボール。
アベベが入ったチームが必ず勝つと、少年たちは理解していました。
それほど、際だった動きを見せていたのです。
しかし、振り返ってみればこの日常生活こそが、マラソンランナーとしては理想的なものでした。
エチオピアは高い標高があります。
首都アジズアベバから北東に130キロであるアベベの出身地は、標高3千メートルもの高さ。木曽駒ヶ岳くらいの標高です。
そんな高地で標高差をものともせず野山を駆け巡る。
農場まで往復20キロをほぼ毎日通う。
山羊の乳や獣の肉という高タンパク食品を食べる。
気づかないうちに、マラソンランナーとしての教育を受けたようなものです。
しかしアベベは19歳で、兵士となりました。
妻ヨーダブルや我が子とともに、堅実な生活を送っていたのです。
師弟の出会い
アベベは、皇帝ハイレ・セラシエ1世の親衛隊員となりました。
軍隊にあっても、身体検査、運動能力テストで上位を記録。
当時の自宅から皇帝の居城まで、20キロもの距離を通っていたのですから、ますます身体頑健となっていくのです。
銃を抱えてのランニングや、バスケ、サッカー、ボクシングなどのスポーツを、訓練としてこなし、そこでも目立つ存在だったアベベ。
特に長距離走が大の得意で、タイムを縮めて褒められることが嬉しく、張り切って走り続けました。
そんなアベベに、熱い視線を送るスウェーデン陸軍少佐がいました。
オンニ・ニスカネンです。
親衛隊の体育教官でした。
身体能力だけではなく、精神面でもアベベは違う――とニスカネンは気づきます。
他の隊員はニスカネンのアドバイスに「わかりました」と答えても、すぐに自己流に戻ってしまう。
ところがアベベは、素直に受け入れるのです。
「きみ、マラソンをやってみないか?」
ニスカネンはアベベにそう声を掛けました。
ローマ五輪まであと4年――1956年のことです。
それまではひたむきに走っていたアベベですが、彼の指導の下ではそれも変わりました。
厳しいトレーニングにきちんとついてこれるだろうか。
当初、ニスカネンも心配しておりましたが、杞憂でした。アベベは弱音を吐くことなく、理論だったトレーニングをこなしていくのです。
高低差のあるコースを走り、ニスカネンからマラソンの指導を受けるアベベ。
タイムはさらに縮んでいきました。
トレーニング地の高度は、実に2,400メートルだったのですから、そりゃあ強くなります。
実は当時、高地トレーニングの存在は知られておりませんでした。
皆さんご存知のとおり、標高が高くなりますと、それに比例して酸素が薄くなります。
そのため高地でトレーニングを積んでおくと、平地での呼吸がずっと楽になり、疲労しにくい身体に鍛えられます。
アベベは意図せず、この効果を受けたことになります。
ニスカネンは念入りにローマ五輪のマラソンコースを観察し、そっくりのコースを造りました。
しかも、その標高は1,800メートルの場所にあったのですから、そこで練習をすれば他の選手に比べて圧倒的に強靭であろうことは想像に難くありません。
いよいよ五輪を迎えた年。
ニスカネンはアベベのタイムを計測しました。
当時のマラソン世界記録と大差ないものでした。
「金メダルを獲得するのは、このアベベだ……」
そんな確信を持てたのはニスカネンだけ。
当時無名のアベベに注目するものは世界で他にはおりませんでした。
シューズを履くべきか? 裸足で走るべきか?
アベベとニスカネンは本番一ヶ月前にローマ入りしました。
環境に適応するため、念入りに練習をする二人。
たっぷり睡眠を取り、時差や慣れない食事などを少しずつ解消していきます。
しかし、思わぬアクシデントが起こってしまうのです。
本番まであと二日というそのとき、シューズがついに音を上げてしまいました。
イタリアで靴を買おうにも、フィットするものが見つからない。
絶望的な状況ですが、アベベは迷いませんでした。
イタリアの道は整備されており、砂利やガラス片で怪我をすることはない。
なんならシューズを履くと、どうしても重いし、裸足には慣れている——。
当日スタート直前。
一人の記者が面食らって、アベベに駆け寄ってきました。
「裸足で走るんですか? いいんですか? 途中でダメになったらどうします?」
「最後まで走りきる自信がなければ、マラソンに出場などしません」
アベベはきっぱりと言い切り、スタートを切ったのです。
彼は、ニスカネンの指示を念頭に置いて走り始めました。
20キロまでは本気を出さない。
30キロまではトップに立つな。
それでも、優勝候補の選手の動きは気にしておくように――。
このときのマラソンコースは、風光明媚で歴史あるローマを巡るため、「走るオペラ」と呼ばれたほどでした。
カラカラ大浴場、アッピア街道を通り、コンスタンティヌスの凱旋門をゴールに目指すのです。
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選手の先頭集団が35キロ地点にやってくると、凱旋門で見守る記者たちはざわめき始めました。
ニスカネンの指示通り、アベベが本気を出し始めたのです。
無名ランナーから金メダリストへ
「あの11番は誰なんだ?」
優勝候補でもない。
ノーマークのアフリカ系選手がよく食らいついてくる。
彼らは選手一覧を見たものの、アベベ・ビキラという名前、生年月日、エチオピア出身であること以外には身長体重しか情報がありません。
最高記録、成績、家族構成といったネタは無し。
どの記者も知りませんでした。
戸惑いながらも彼らは平静を取り戻そうとします。
どうせポッと出のまぐれだろう。勝つハズがない。
そう思ったのでしょう。
しかし、予想に反して40キロ地点を越えても、この11番はもう一人の選手とトップ争いを繰り広げているのです。
辺りは暗くなり、松明で照らされる中、気がつけば11番のアベベが先頭でゴールをしておりました。
これには凱旋門にいた記者たちも、ゴールで待ち受ける観衆も大興奮!
タイムは2時間15分16秒2――世界最高記録でした。
しかも足下は裸足なのです。
かくしてエチオピア初のメダリストとなったアベベは、こう答えたのでした。
「エチオピアはまだ貧しく、乗り物も充分ではありません。どこへ行くにしても、自分の脚が頼りなのです。40キロくらい、どうということはないのです」
そんなアベベが帰国すると、エチオピアは大歓迎でした。
皇帝のハイレ・セラシエ1世は直々に祝辞を述べ、勲章と金の指輪を贈ったたほどです。
エチオピアのみならず、アフリカ大陸全体も熱気に沸き立ちました。
アフリカ大陸初の金メダリストでもあったからです。
オリンピックは、世界のスポーツ祭典という名目で始まったものではあります。
しかし、それはあくまで名目上の話。
ヨーロッパを中心とした国力誇示のためでもあり、ヒトラーが前面に立った1936年ベルリン五輪のように、政治利用されてきた一面があります。
そんなオリンピックにおいて、ついにアフリカ大陸からメダリストが出た。
大きな意義がありました。
東京五輪での連覇
アベベには、日本からも高い関心が寄せられました。
次のオリンピックが東京開催だったからです。
あの裸足のランナーが見たい!
日本中がわくわくしながら待ち受けておりました。
1964年10月——この五輪で、エチオピアの旗手はアベベでした。
しかし、彼とニスカネンは不安を抱えていました。
マラソン競技の35日前、急性盲腸炎の開腹手術を受けていたのです。
いくらあのアベベとはいえ、そんな短期間で回復できるのか?
当然、調整や練習も思い通りではありません。
マラソン競技は10月21日に実施。
アベベは「伝説を作るのは一度で充分」と言い、今回はドイツ製のスニーカーを履いていました。
そして120万人の観客が見守る中、マラソン選手団が東京を駆け抜けていきます。
先頭はアベベ含めた三選手でした。
が、徐々にアベベが引き離し、実に20キロ地点で独走状態となります。
日本人観客は、二位を走り最終盤で追い抜かれ、三位になってしまった円谷選手に歓声を送っていました。
しかし、それだけではありません。
ひたむきに走るアベベの姿は、まるで「哲人」のようだと評されたほどでした。
二連覇を達成して、エチオピア国旗がまたしても真ん中に翻る中、アベベはこう述べます。
「敵は他の選手ではない。私自身だ。私は、私自身に勝利した」
彼の脳裏にあるのは、次のメキシコ五輪制覇でした。
1968年メキシコ五輪で奇跡は……
しかし、その奇跡は起こりませんでした。
4年後のメキシコ五輪でアベベは、16キロの地点でしゃがみこみリタイアしてしまったのです。
それが彼にとって最後の五輪でした。
体力の限界を迎えたわけじゃありません。
1969年、自動車事故により脊椎を損傷したのです。
走ることはおろか、歩くことすらできなくなってしまったアベベ。
世界中がこの喪失に沈む中、アベベは不屈の意志を見せます。
まだパラリンピックがない時代でしたが、車椅子競技大会にアーチェリーや卓球の選手として出場したのです。
1971年に開催された障害者スポーツ犬ぞり競技では、一位を獲得したこともありました。
凄まじい精神力としか言いようがありません。1972年のミュンヘン五輪には、ゲストとして参加しております。
自らの脚でなくとも、走り続ける人生でした。
彼自身は、いつまでも注目を浴びることに疲れていた面もありましたが、英雄となってしまい、そのことを言い出せる雰囲気ではありません。
その翌1973年、交通事故の後遺症である脳内出血によって、アベベは息を引き取りました。
享年43という若さ。
最期まで人生というレースを走り続けた、哲人の死でした。
文:小檜山青
【参考】
『アベベを覚えてますか』(山田一廣(著))(→amazon link)
『スポーツ感動物語 第2期〈5〉天才と努力』学研教育出版 (編集)(→amazon link)