アベベ

1960年ローマ大会にて裸足で優勝したアベベ/wikipediaより引用

アフリカ

アベベはなぜ裸足で走ったのか 東京五輪マラソンでは靴を履いて連覇を果たす

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アベベ
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東京五輪での連覇

アベベには、日本からも高い関心が寄せられました。

次のオリンピックが東京開催だったからです。

あの裸足のランナーが見たい!

日本中がわくわくしながら待ち受けておりました。

1964年10月——この五輪で、エチオピアの旗手はアベベでした。

しかし、彼とニスカネンは不安を抱えていました。

マラソン競技の35日前、急性盲腸炎の開腹手術を受けていたのです。

いくらあのアベベとはいえ、そんな短期間で回復できるのか?

当然、調整や練習も思い通りではありません。

マラソン競技は10月21日に実施。

アベベは「伝説を作るのは一度で充分」と言い、今回はドイツ製のスニーカーを履いていました。

そして120万人の観客が見守る中、マラソン選手団が東京を駆け抜けていきます。

先頭はアベベ含めた三選手でした。

が、徐々にアベベが引き離し、実に20キロ地点で独走状態となります。

 

日本人観客は、二位を走り最終盤で追い抜かれ、三位になってしまった円谷選手に歓声を送っていました。

しかし、それだけではありません。

ひたむきに走るアベベの姿は、まるで「哲人」のようだと評されたほどでした。

二連覇を達成して、エチオピア国旗がまたしても真ん中に翻る中、アベベはこう述べます。

「敵は他の選手ではない。私自身だ。私は、私自身に勝利した」

彼の脳裏にあるのは、次のメキシコ五輪制覇でした。

1968年「不屈の哲人」アベベ/wikipediaより引用

 


1968年メキシコ五輪で奇跡は……

しかし、その奇跡は起こりませんでした。

4年後のメキシコ五輪でアベベは、16キロの地点でしゃがみこみリタイアしてしまったのです。

それが彼にとって最後の五輪でした。

体力の限界を迎えたわけじゃありません。

1969年、自動車事故により脊椎を損傷したのです。

走ることはおろか、歩くことすらできなくなってしまったアベベ。

世界中がこの喪失に沈む中、アベベは不屈の意志を見せます。

まだパラリンピックがない時代でしたが、車椅子競技大会にアーチェリーや卓球の選手として出場したのです。

1971年に開催された障害者スポーツ犬ぞり競技では、一位を獲得したこともありました。

凄まじい精神力としか言いようがありません。1972年のミュンヘン五輪には、ゲストとして参加しております。

自らの脚でなくとも、走り続ける人生でした。

彼自身は、いつまでも注目を浴びることに疲れていた面もありましたが、英雄となってしまい、そのことを言い出せる雰囲気ではありません。

その翌1973年、交通事故の後遺症である脳内出血によって、アベベは息を引き取りました。

享年43という若さ。

最期まで人生というレースを走り続けた、哲人の死でした。

イタリアに残るアベベ記念橋/wikipediaより引用


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文:小檜山青

【参考】
山田一廣『アベベを覚えてますか』(→amazon
学研教育出版『スポーツ感動物語 第2期〈5〉天才と努力』(→amazon

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