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【エンプレス・オブ・アイルランド号】
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事故後 ケベックで海難審判
さて、この事故の原因なのですが、未だに良く分かっていないのだそうです。
事故後、ケベックで海難審判が開かれます。
この時、英国側からメーシー卿という人物が調査の為に派遣。
1912年のタイタニック号遭難の年にも調査に当たったそうです。
事故の25分前(つまり午後1時30分)、シドニーからモントリオールに向かっていたストータッド号はエンプレス号を発見します。
双方の距離は、まだ1キロ。
しかし、この直後から霧となります。何しろ、船の端っこが見えなくなるくらいの濃さです。
悲劇だったのは、船長のヘンリー・ケンダールがカナディアン・パシフィックのベテランではあったものの、よりによってエンプレス号の操舵をするのが初めてだった事でしょう。
審判の席上でメーシー卿は
「分別のある船乗りなら減速するなり停船するなり、今まで教わったあらゆる適切な措置を取ろうとは思わなかったのかね。隔壁を閉鎖し、停船信号を出したり、警笛だって鳴らせただろう?」
とケンダールを非難したそうです(ゼニ氏による)。
一方、ケンダールはストータッド号とエンプレス号には氷山を破砕する為、船首を尖らせた設計となっていましたが、これが仇となり、エンプレス号の右舷に衝突してしまったと証言しています。
ところがゼニ氏(アメリカ海軍の退役将校だそうです)によると、どうもこれが怪しいのだとか。
600頁もの事故報告書が残るが今なお原因不明
600ページに及ぶ事故報告書によると、エンプレス号は隔壁を閉鎖しておらず、当時の天候を考えると適切でない措置だった可能性があります。
「濃霧で衝突する危険性があった以上、隔壁を閉鎖して停船するのが筋に思える」とゼニ氏。
一方、ウィリス氏は、双方が当初の航路を辿っていなかった事を事故原因に挙げています。
警笛を鳴らし合ったのですが、これを聴いた双方が勘違いして進路変更をしていたのですって。
「互いが進路変更してくれると思い込み、逆コースを取った。酷いエラーとしか言いようが無い」
なお、タイタニックの教訓から、船には規定通りの数の救命艇が積載されていたものの、あまりにも早く沈んでしまったので、1000人を超す死者となってしまいました。
また、事故が深夜に発生し、大勢の乗客が寝ていたのも、悲劇を大きくしました。
船底の方で寝ていた2等船客や3等船客は、殆ど助からなかったそうです。
生存者の声が新聞に語っています。
「気持ち良く床に就いていた午前1時30分頃に、事故が発生した。
耳に不快なきしみがあり、何かが起きたと察知した。
直後に船が傾き、舷窓から水が入り始めたので、これは危険だと思った。
救世軍の150人のメンバーの内、私の両親や妹が亡くなった」
そんな生存者の中で運が良かったのがクラッドという人物。
緑色のパジャマ姿という軽装ながら、水で一杯の廊下を泳いで船外に辛うじて脱出できたそうです。
幸いな事に、両親と妹も助かりましたが、事故のショックと冷水を泳いだからか暫くは口が利けなかったそうです。
地元の博物館が展覧会と情報収集
さて、博物館では、展覧会を行い事故原因や乗船客のエピソードの発掘に勤めたいとしています。
当時、この船は英国からの移民が利用していた事もあって、子孫からの情報提供があったそうです。
また、一連の情報から、新たな事実も発掘できました。
いったんは移民となったものの、冬の寒さなどに耐えきれなくなった人達が祖国に帰っていたケースが多くあった事が、事故を通じて判明したのだそうです。
実際、2等や3等の船室に寝泊まりしていた客の大半がそうした人だったのですって。
「当時、移民が一方通行では無かった事を記憶しておきたい。来た人もいれば出ていった人もいたのです」とウィリス氏。
8年間で運んだ移民は1万8000人にのぼりました。
これもこれで歴史的事実と言えましょうか。
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南如水・記
【参考】
トロント・スター紙(→link)