明治五年(1872年)5月29日、東京師範学校が設置されました。
師範=先生を養成するための学校です。
明治政府は「次世代以降の国民を、世界に通用する知識と能力を持った人間に育てよう!」という理想を掲げており、そのためには西洋の学問も取り入れた教育が必要だ――。
ということで、それを教える先生がたくさん必要になっておりました。
そこで全国に先駆けて設立されたのが東京師範学校だったのです。
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アメリカからお雇い外国人マリオン・スコットを招聘
東京師範学校は、旧制小学校の教師を育成するため、江戸幕府の学問所だった湯島聖堂内に設置されました。
とはいえ建物だけあって人が育つはずもなく、そもそも教師を育成するための先生が必要です。
要は「先生の先生」ですね。
そこで招聘されたのが、お雇い外国人のマリオン・スコット(米国人)でした。
翌年、同校を卒業した一期生たちは、さっそく各地の教員養成期間や役所の教育担当として、新たな教員育成に携わっていきます。
富岡製糸場で勤めていた初期の女工たちが、実家に帰った後、周囲の女性に技術を伝えたのと同じような感じでしょうか。
お上だけで主導するにも限度がありますし「西洋に追いつけ追い越せ」のためには人員育成を急がねばならないので、このような手法が広く取られたのでしょう。
かくして東京師範学校の第一期生が卒業した後には、大阪・宮城・愛知・広島・長崎・新潟にも官立(国立)師範学校が設置。
小学校教員の育成が軌道に乗ると、次に旧制中学の教員育成が始まりました。
学費がなくても学べる代わりに軍隊化してしまい……
しかし、経営に余裕はなく、西南戦争による財政難で地方の官立師範学校は数年で廃止へと追い込まれます。
小学校教員の養成は各府県の師範学校が担当することになり、東京師範学校は中等教育学校の教員育成に役割を変えていきました。
教員養成という目的も少しずつ進んでいましたが、同時に学内での問題も出てきました。
東京師範学校は官立であり、卒業後は教職に就く代わりに授業料と生活の保証をするという制度になっています。
現代でいえば防衛大学校のようなものですかね。師範学校の場合、給与は出ませんが。
このおかげで「学費が払えない」という理由で進学を諦めた人が多く集まります。陸軍軍人・秋山好古などはその典型的な例です。
しかしその分「忠君愛国」が強調され、全寮制や服装規定などがほぼ軍隊と同等レベルの厳しさでした。
その閉鎖性のためか、寮内での上級生から下級生に対する「しごき」と称したイジメは深刻で、全寮制を廃止した師範学校もあったといいます。
人を教える立場になろうというのに、無意味な暴力を働くとは言語道断ですよね。
現代でも残念なことに学校・組織とイジメは切っても切れない関係にあります。
社会全体の問題かとは思いますが、それにしても昔から変わっていない構造的な問題もあるかもしれません。すると、その後は……。
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