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【東京高等師範学校】
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スポーツ&グローバル目線を重視する
嘉納が生きた明治時代とは、チャンスがあるようで実は厳しい、そんな時代でした。
江戸時代以前のように、家を継いでいればよいものでもありません。
総理大臣になるか、博士になるか、富豪になるか。
そんな野心を燃やし、勉学に励む青年が溢れていたのです。
嘉納もその一人でした。
彼が当時の教育者である新渡戸稲造あたりと違うところは「健全な肉体あってこそ!」と信じていたことでしょう。
喧嘩に負けないため柔術を会得する中で、その思いはますます強まりました。
勝海舟との出会いも、この精神を後押ししております。
「何をするにしても、人間ってのは身体壮健でなくちゃいけねえよ」
この教えは、学問だけではなく武道を修めた武士として勝の実感がこもっています。
現代にも通じることで、体調不良に苦しんでいたデスクワーカーが、筋力トレーニングを始めたところ心身ともにスッキリした、なんて体験談がありますよね。
嘉納の中では、一見関係のない要素が結びついていました。
「心身を鍛えれば、国際的にも負けない!」
そんな考えもあったのです。
いやいや、いくら何でも筋肉万能論過ぎるでしょ、とつっこみたくもありますが、理由もあります。
彼は鍛え上げた柔術で、巨漢のロシア士官をバタバタとなぎ倒したことがあるのです。
身体を鍛え、英語はじめ学問を学び、グローバル人材を育成し、日本の国際競争力をアップ!
そんな教育論が嘉納の持ち味であり、東京高等師範学校から筑波大学まで貫き通す理念であるのです。
ゆえに嘉納が、IOC委員としてオリンピック招致に尽力しても、何の不思議もありません。
若い頃は、富豪なり政治家なり、そんな野心を抱いていた嘉納。
しかし心身を鍛えていくうちに、教育者として国際舞台で活躍する日本人を育てあげてこそ人生ではないか、そんな境地に至ります。
彼の目標は、優秀な指導者を育成することでもありました。
金栗はじめ、嘉納の教え子は指導者としても頭角を現している人物が多いのもそのせいでしょう。
“柔道”のイメージがどうしても強い嘉納ですが、教育者としても極めて先進的、かつ慈愛と先見性に富んでいたのです。
日本の近代スポーツ史を牽引する
そんな東京高等師範学校には、嘉納治五郎だけではなく、多くの優れた体育教師がおりました。
日本初の体操教師・坪井玄道が就任したのも、東京高等師範学校です。
明治29年(1896年)、坪井はフートボール部(現:筑波大学蹴球部)に就任。
その功績から、日本サッカー殿堂入りを果たしました。
スェーデン体操を学んだ川瀬元九郎や永井道明も、東京高等師範学校で体育指導を実施。
この体操は、大正時代の日本教育現場で普及します。
このように東京高等師範学校はスポーツ黎明期から現在に至るまで、日本には欠かせない教育機関であるのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『東京教育大学百年史』(→amazon)
『国史大辞典』