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【マリー・ド・ブルゴーニュとマクシミリアン】
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「白馬の王子」マクシミリアン登場
ハプスブルク家といえば、数百年にわたって続いた名家として、今でこそ華やかなイメージがあるでしょう。
ですが、この頃はまだ微力な存在。
マクシミリアン(1459~1519)の父フリードリヒ3世は、神聖ローマ帝国の皇帝ではありましたが、特別な権力も権威も財産も持っていたわけではありません。
【フランスと敵対している】という点では一致していました。
「助けて!」
マリーは、藁をもつかむ思いで、マクシミリアンに手紙を書きます。
「公国に来て、私とすぐに結婚して!」
マクシミリアンも、このSOSに応じます。
資金不足に足を引っ張られながらも、1477年8月17日深夜にゲントに到着。マリーとの対面を果たします。
手紙を出してから約5か月、マリーは、この日を待ち続けていました。
これでフランス王の目論見をくじけます。
しかも、こうして自分のピンチに駆けつけてくれた「白馬の王子様」マクシミリアンは、体格に優れた18歳の美しい若者(〃∇〃)だったのです。
マクシミリアンも「絶世の美女」として名高い婚約者を前にして(〃∇〃)、一目で心を奪われます。
当時、辺境の地だったウィーンから出てきた彼にとって、洗練された文化国の、それも宮廷の中で育ったマリーは、どれほど眩しく見えたことでしょう。
互いに言葉は通じなくとも、瞳を見れば、相手が自分と同じ気持ちであることは明白でした。
現代風に言うなら「吊り橋効果」もあったでしょう。
翌日の早朝、二人は正式に結婚。
かくして、ハプスブルク家の長い歴史の中でも、一、二を争うおしどり夫婦(ついでに言うと美形カップル)がここに誕生しました。
幸せな二人の生活 しかし5年目に…
始まりこそ、当時の王侯貴族たちの例にもれず政略結婚でしたが、マリーとマクシミリアン夫婦は仲が良く、互いに深い愛情を抱いていました。
歳が近い上に性格も合い、さらに乗馬という趣味が二人を強く結びつけます。
共同統治者として領内を歴訪する時、そして狩りに行く時も二人はいつも一緒でした。
言葉についても、初めのうちは、当時の教養語だったラテン語でやりとりしながら、互いに言葉を教え合うことで、問題は間もなく解消されました。
レッスンを通じて、マクシミリアンは、公国内の公用語であるフランス語もフラマン語も、会話はもちろん読み書き共にネイティヴレベルで使いこなせるまでになっています。
マリーの教え方が上手だったのか、それともマクシミリアンが奥さんを前に頑張ったのか……。
マクシミリアンは、故郷の友人への手紙の中で、愛妻の魅力を書き連ね、こう結んでいます。
「……ぼくは彼女(マリー)ほど美しく、快活な女性にあったことがない(*´ェ`*)」
蜘蛛男、もといルイ11世は、しつこく色々と仕掛けてきていました。
が、マクシミリアンは毅然とした態度で臨みます。
1479年のギネガテの戦いではフランス軍を撃破。
この時にマクシミリアンたちがフランドルを確保したことが、フランスとの因縁の始まりにもなりました。
そしてこの戦いと前後して、夫婦の間には長男フィリップ美公(女王フアナの夫でカール5世の父)が誕生。
その翌年には娘マルグリット、さらにその翌年にも次男(夭逝)と、子宝にも恵まれます。
二人は、まさに幸せでいっぱい。
しかし、おとぎ話とは違い、その幸せは「いつまでも」とは行きませんでした。
1482年3月、マリーは第四子を懐妊中でした。
それにも関わらず、夫の白鷺猟について行ったのです。
周囲は一応止めたのですが、彼女としては、大好きなスポーツも、夫への同行も、控えるなど、考えられないこと。
「乗馬はもともと得意だから」という油断もあったでしょう。
しかし、こういう時が一番危ないもので……。
油断が命取りになりました。
濠を飛び越そうとした時、馬が突然棒立ちになり、彼女は落馬、重傷を負ってしまうのです。
救出はされたものの、子供は当然、流産。
3週間後、マクシミリアンに手を握られながら、彼女も亡くなります。
享年25。
結婚してから5年目のことでした。
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