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【マリー・ド・ブルゴーニュとマクシミリアン】
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フランスとハプスブルク家、因縁の始まり
残されたマクシミリアンは、不幸のどん底へと文字通り突き落とされました。
彼は泣きに泣いて、妻の横たわるベッドからなかなか離れようとしませんでした。
しかし、悲しみにだけ浸っているわけにはいきません。
マクシミリアンの公国内での立場は、しょせんマスオさん、正当な後継者たるマリーあっての存在です。
マリーも遺言の中で、幼い息子フィリップの摂政として、マクシミリアンを指名してくれてはいましたが、案の定と言うべきか、守られませんでした。
国内では内乱が勃発。
その裏で糸を引いていたのは、あの蜘蛛男ことルイ11世でした。
実にしつこいこの男には、以前から色々と仕掛けられていましたが、嫌がらせはルイの息子シャルル8世の代になってからも続きます。
① 3歳の娘マルグリットを王太子シャルルとの婚約の名目で人質として拉致される
② ルイの死後、後を継いだシャルル8世に、自身の再婚相手を奪われる
③ ②に伴い、マルグリットとの婚約は破棄。しかも、その後も人質同然にフランスに留め置かれる(後にどうにか帰国)
書き出してみても、凄まじき情念。
もちろん、一連の所業にマクシミリアンは大激怒です。
「フランス、許すまじっ!!!」
彼の恨みは子孫たちにも受け継がれ、18世紀にマリー・アントワネットが嫁ぐまで続きました。
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その後のマクシミリアン
ブルゴーニュを巡る問題に片が付いた後、1493年にマクシミリアンは34歳で神聖ローマ皇帝に即位。
以後、神聖ローマ帝国の帝位は、ハプスブルク家が代々世襲していくことになります。
彼は、マリーとの間に生まれた二人の子供や孫たちを、政略結婚の駒として各国に嫁がせ、勢力を広げていきました。
そしてその成果は、孫カール5世の代に、新大陸までをも領土として含む大帝国となって結実します。
彼自身も、政略上の理由から再婚します。
が、最初の妻マリーを忘れた日は一日とてありませんでした。
1519年、死の床でマクシミリアンは、遺言の中でこう願うのです。
「心臓を、ブリュッセルで眠るマリーの墓に入れてほしい」
あの日、マリーを看取ってからすでに37年。
皇帝として、現実の問題に忙殺されてきたマクシミリアンは、ようやく最愛の女性との思い出だけを抱くことができたのでしょう。
「神の恩寵によって私は安らかにこの旅の途につける」
この言葉を最後に、彼は静に息を引き取りました。
享年59。
最愛の夫の心臓と共に眠る
マリー・ド・ブルゴーニュは、フランスの脅威に対し、屈することも、周囲に流されることもありませんでした。
婚約者マクシミリアンを信じ、待ち続けた芯の強さ――そのおかげで国を守り、たとえ短くても幸せをつかむことができています。
最終的にブルゴーニュ公国は消滅しましたが、彼女の血はハプスブルク家の中に流れ込み、数百年にわたって受け継がれました。
また、ベルギーでも彼女の名前にちなんだビール「デュシェス・ド・ブルゴーニュ」が生産され、肖像画がラベルとして使われるなど、現在でも人々に愛され続けています。
しかし、そうした血や名前の反映よりも、彼女の幸せは一人の人を心から愛し、相手からも愛されたことだったのではないでしょうか。
彼女は、ブリュッセルの聖堂で、父の隣で最愛の夫の心臓と共に永遠の眠りについています。
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文:verde
【参考】
江村洋『中世最後の騎士 皇帝マクシミリアン1世伝』(→amazon)
岩﨑周一『ハプスブルク帝国』(→amazon)
マリー・ド・ブルゴーニュ/wikipedia
マクシミリアン1世/wikipedia