されど、その中で「神」や「怪物」という域にまで達した人は数えるほどでしょう。
ミケランジェロはその一人。
そして16世紀のイタリア美術代表格として、この神のごとき天才と並び称された人物が「色彩の錬金術師」ことティツィアーノです。
かたやフィレンツェ派の代表格。
かたやヴェネツィア派の第一人者。
共に卓越した才能と誇り、譲れない主張(美学)を持つ二人が、1540年代、真っ向からぶつかり合いました。
それはまさに才能の怪獣たちのバトル!
果たして勝負の行く末はいかに?
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「線」のフィレンツェと「色彩」のヴェネツィア
そもそも、フィレンツェ派とヴェネツィア派の違いはドコにあるのか?
簡単にまとめて見ますと……。
【フィレンツェ派】
中心地:フィレンツェ(イタリア中部)
特徴:デッサン(素描)と理論を重視し、かっちりとした画面を作る「線の美術」
主な画家:フィリッポ・リッピ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチなど
フィレンツェで始まった「ルネサンス」を主導、各地の美術に影響を与えた
【ヴェネツィア派】
中心地:ヴェネツィア(イタリア北部)
特徴:「色彩」を重視し、感覚に直接訴えかける表現を追求する「色彩の美術」
主な画家:ジョヴァンニ・ベッリーニ、ジョルジョーネ、ティツィアーノなど
フィレンツェはルネサンス揺籃の地です。
「ルネサンスの画家」と聞いてすぐに思い浮かぶのもフィレンツェ派の画家が多いでしょう。
一方、ヴェネツィアでルネサンスが始まったのは、他の都市に比べてやや遅く15世紀後半でした。
もともと、東洋(ビザンツ帝国)と西洋(ヨーロッパ)、北方(フランドル)と南方(イタリア)、といった異質な文化の交差点に位置していたヴェネツィア。
フィレンツェで生まれた新たな美術の動きを取り入れつつも、色彩を重視する独自の美術を育んでいきます。
ジョヴァンニ・ベッリーニ
そのヴェネツィア派の礎を築いたのがジョヴァンニ・ベッリーニ(1430~1516年)でした。
画家一族に生まれた彼は、若いころから遠近法や写実主義など、あらゆる美術の要素を取り入れながら、研究を重ねます。
1480年頃からは、北方で生み出された新技法・油彩画を本格的に用いるようになり、やがて豊かな色彩と柔らかな表現による、明るく伸びやかな画面を作り上げるのです。
彼の研究の成果、画風は、やがてヴェネツィア派のスタンダードとなり、多くの弟子たちに受け継がれます。
中でも、師から受け継いだ技術を発展させ、厚塗りや荒々しい筆致を活かした表現など、油彩ならではな新しい表現を編み出すまでになったのがティツィアーノ・ヴィチェリオ(1488/90頃~1576)でした。
1516年に師ベッリーニが死ぬと、彼は、ヴェネツィア画壇の第一人者となり、その後なんと約60年にも渡って君臨し続けます。
そんな彼の名声はヴェネツィア内に留まりません。
フェラーラをはじめ他のイタリア諸国君主や教皇(さらに後にはハプスブルク家の皇帝からも!)といった名だたるセレブたちから、注文を受けるようになっていくのです。
ミケランジェロがティツィアーノの作品に出会った
1529年夏のことでした。
フェラーラに滞在していたミケランジェロは、書斎で一枚の作品に出会います。
描かれているのは、ギリシア・ローマ神話の酒の神バッカスにささげる祭りの一場面でした。
のどかな美しい風景の中、集まった人々が酒を飲んだり、歌ったり、踊ったり。
よく見れば、前景には酒壺を枕にして、眠っている女性(ニンフ)がいます。
赤く染まった顔から察するに、おそらく酔いつぶれてしまったのでしょう。風景の中で、彼女の体は、ほのかに白い光を放っているかのようです。
このような「横たわる裸婦」は、実は16世紀のヴェネツィア画壇で流行していたモチーフで、ティツィアーノにとっても十八番でした。
ミケランジェロも、その美しさを認めると共に、いや、認めたからこそでしょうか、大いに対抗心を燃やします。
「俺は、コイツを超えたい…!」
ちょうど、フェラーラ公からも、「何か作品が欲しい」と注文が入ったところでした。
ミケランジェロは、早速制作に取り掛かり、一枚の絵を描きあげます。
それが『レダと白鳥』です。
この絵は、ギリシア神話のエピソード―――スパルタ王妃レダを見初めた最高神ゼウスが、白鳥に変身して彼女のもとを訪れた――という話がもとになっています。
画面いっぱいに描かれた裸婦が、上半身を起し、足の間に抱えた白鳥とキスをする。ちょっとドキッとしてしまうこの一枚。
しかし、そこにはミケランジェロなりのこだわりが詰まっていると言えましょう。
一つは、ボリューミーで立体的な肉体の表現。柔らかい、というよりも筋肉質でがっちりと硬そうです。
実はミケランジェロさん、もともと女性像を彫る際にも男性モデルを使っており、今回も例外ではなかったようです。
もう一つは、もちろんティツィアーノへの対抗心。
だらんと地面に無防備に寝そべるのではなく、体を起こし、捩り、とアレンジを加えています。実際このポーズを再現してみると、体が痛くて長時間はキープできません。
彼はもともとは「彫刻家」であり、「彫刻」という表現技法にも、並々ならぬこだわりと思い入れを持っていました。
もしも頭の中を覗くことができたら現代の3Dモデルのように立体イメージの『レダと白鳥』に仕上がっていたのかもしれません。彫刻(立体作品)として作ることもできたのではないでしょうか。
そんなミケランジェロの意欲作『レダと白鳥』は1541年、彼の弟子であり友人でもあったヴァザーリによって、ヴェネツィアへ模写が持ち込まれます。
「どうよ?」
ミケランジェロは、ティツィアーノたちに向って、こう言いたかったのではないでしょうか?
「芸術で大事なのは、デッサンの積み重ねよ。お前さんたちに、こんなポーズは思いつけないし、描けないだろ?」
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