シャルロット・コルデー/wikipediaより引用

フランス

暗殺の天使シャルロット・コルデー なぜ絶世の美女は凶行に走ったのか?

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20代半ばの彼女は、年齢よりはるかに若く見え、まるで少女のようでした。

強い意志を秘め、凛としていながらも優しげな顔立ちは、見る者を魅了。
虫も殺せないような若い女性が、その実、殺人犯だと知って人々は驚愕します。

シャルロット・コルデー

「暗殺の天使」と呼ばれる彼女は、なぜ暗殺者になってしまったのでしょうか。

 

シャルロット・コルデーは三大古典詩人の子孫だった

シャルロットは1768年、フランスはノルマンディーにある下級貴族の家に生まれました。
父は長男でないこともあって、貴族といえども貧しく、狭い土地を耕し生きるのに精一杯。いつも不満を抱いていたのでした。

コルデ家は貧しくとも、三大古典詩人の一人・コルネイユの子孫にあたる血統です。
彼らは、それを誇りとしておりました。

13才で母と死別した彼女は、親戚のつてを頼り、妹とともに修道院に送られます。
裕福な家の娘ならば、修道院で教育を終えてそこを出て、結婚相手を探すことになるでしょう。

当時、シャルロットのような女性が結婚できるかどうかは、持参金と運次第です。
美貌と聡明さで知られることになるシャルロットですが、持参金がなければ結婚もままなりません。身よりのない貧乏貴族の娘は、一生を修道院で過ごさねばならない運命です。

何事もなければ、シャルロットはノルマンディーの修道院の片隅で、ひっそりとした人生を終えることになっていたことでしょう。

しかし時代は大きく動きます。
1789年、フランス革命が起こると、修道院は「国有財産」とみなされ、閉鎖されてしまったのです。

十年間を世捨て人のように過ごしながら、突如世界に放り出されたシャルロット。
彼女は父のもとに身を寄せることにしました。

シャルロットの生家 photo by Sylvain Lumbroso/Wikipediaより引用

 

革命の熱狂をカーンで眺めていた

修道院を出たシャルロットは、父のもとに身を寄せます。
貴族でありながらその恩恵を得られず、窮乏していた父は革命に大賛成でした。

そんな父とそりがあわなかったのか。
シャルロットはカーンの親戚の家に身を寄せることにします。

そこでシャルロットは、彼女なりに革命を理解しようとパンフレットを読みあさります。
ルイ16世が国外逃亡したヴァレンヌ事件についても知ります。

彼女が抱いていた国王への敬意は、次第に軽蔑へ……。
国王自体は悪い人ではないかもしれないけど、弱くて頼りない——そう考えるようになったのです。

シャルロットはある食事の席で、「国王陛下に乾杯!」と言われた際に乾杯を拒否して、同席した人と口論になっています。
「私は共和主義者なのだ。そして弱い国王をもはや尊敬してなどいない」
シャルロットはそう確信するようになりました。

時代はやがて、悲劇に突き進んでゆきます。
恐怖政治によって多くの処刑者が出て、フランス国内は内戦に突入するのです。
まさに大量流血の時代。
コルデ家の人々も、シャルロットの兄と弟は国外に亡命しました。父と妹も、田舎で息を潜めて暮らすことを選んでいます。

ただ一人、シャルロットだけは違いました。
彼女は、ジロンド派が拠点としたカーンの街で、じっと歴史の流れを見つめていたのです。

 

ジロンド派vsジャコバン派

カーンを本拠地としたジロンド派は、フランス革命において比較的穏健な立場の一派でした。
彼らはまとまりに欠くところがあり、次第に過激なジャコバン派によって糾弾されることになります。

政治闘争に敗れたジロンド派の人々は、1793年5月末から6月はじめにかけて大量に追放・逮捕され、壊滅状態にまで追い詰められます。

ジロンド派が処刑される様子/Wikipediaより引用

しかし、追い詰められたのはパリのジロンド派だけでした。

地方でのジロンド派はまだまだ多数。
彼らの意向を無視して勝手に政治闘争を繰り広げるパリに、地方は反感を抱いていました。

「ジロンド派の議員だって地方の代表だぞ! パリのやり方はあまりにひどい!」

憤激した地方都市は、中央のジャコバン派に叛旗を翻します。
カーンもそんな都市のひとつでした。

パリから追放された、あるいは逃げ出してきたジロンド派の議員たちが、カーンにたどり着きます。
シャルロットはいわば都落ちしてきた彼らと交流するうちに、次第に幻滅を抱くようになりました。捲土重来を期するものかと思っていたのに、彼らは行動を起こそうとしません。

「ならば、私がマラーを殺す!」

『えっ? なになに、突然どうしたの?』と、彼女の突飛な発想に、一瞬引かれる読者さんも多いでしょう。

シャルロットの言うマラーとは、ジャコバン派の実力者です。
それを自ら殺すだなんて、なぜここまで発想が飛躍してしまったのでしょうか?

 

止めどない英雄願望 ワタシは歴史に名を残すのだ!

それは彼女の性格や環境にありました。

コルネイユの子孫であるシャルロットは、自分の血筋を誇りに思い、歴史に名を残したいと思うようになりました。
修道院でのシャルロットの愛読書は、プルタルコスの『英雄伝』。どっぷりと十年間、英雄の物語と思索にふけったシャルロットは、歴史上の英雄に憧れるようになっていたのです。

ジロンド派の拠点であるカーンに住んでいたことも、影響しているでしょう。
そもそも結婚して子供でもいれば、そんなことを考えるヒマもなかったかもしれません。

思い込みが激しい性格。
冷静に考えれば、マラーは殺すべきターゲットにならなかったのですが、視野狭窄に陥った彼女にそんなことは微塵も見えません。

時代の空気も影響したことでしょう。
女性たちがパンを求めベルサイユへ行進して以来、革命に目覚める者は少なくありませんでした。
そんな彼女らを見ていれば、シャルロットが刺激を受けたとしても無理のないことです。

修道院で一生を過ごすはずだったシャルロット。
そんな彼女は、革命の嵐の中で自分ができることを何がなんでもやると思い詰めるようになり、テロリストになる道を選ぶのでした。

シャルロット・コルデー/Wikipediaより引用

 

「マラーは血に飢えた獣?」「いいえ、いい人です」

1793年7月9日、シャルロットはパリ行きの乗り合い馬車に乗り込みました。
周囲には、亡命のためとか、役所での手続きのためなどと伝え、誰も彼女の決意は知りません。

二日間馬車にゆられて、パリに到着。
彼女はホテルの従業員と世間話をしました。

「マラーって血に飢えた獣のような男なんでしょう?」

そう言うと相手は予想外の返事をします。
「いいえ、マラーさんはいい人です。革命を穏健におさめようとしていましたね。今じゃあ人呼んで“人民の友”ですぜ」

ジャン・ポール・マラー/Wikipediaより引用

「あら、そうなの」
だったら殺す必要なんてないわね!とならないのがシャルロットの限界でした。
むしろ「そんなに親切ならばつけ込む隙がある」と思ってしまったようです。

彼女はホテルで長い遺書を書きました。
目的を達成したら命はないとわかっていたからです。

 

皮膚病に冒され風呂から出られないマラーを包丁で……

覚悟と自己陶酔の言葉を遺書に散りばめた翌日。
運命の13日。その日はバスチーユ陥落から4年目です。華々しい式典が行われることでしょう。

シャルロットはこの日、店で細身の包丁を買いました。
田舎娘が包丁を買うことに、店の人も特に気を止めなかったに違いありません。

その凶器を持ち、彼女はマラーの家を訪れます。
重い皮膚病を患っていたマラーは、薬湯で湯治中でした。
「人民の友」であるマラーは、来訪者を断ることもありませんでした。しかし入浴していたため、女中はシャルロットの来訪を断るとドアを閉めてしまいました。

シャルロットは二時間ほどあたりをうろつきました。
それからホテルに戻り、マラー宛に二通手紙を書きます。

返事を待つものの、来ないため、シャルロットは再びマラーの家を訪れました。

しかし部屋の入り口で「通る・通さない」の押し問答。
その声を聞いたマラーは「そんなに熱心な人なら通しなさい」と言ってしまいます。

栗色の髪をきっちりとセットした田舎娘は、危険人物からほど遠く思えたことでしょう。

マラーは重度の皮膚病に冒され、水に浸かりながらでないと仕事もできないほどでした。
浴槽に板を渡して、そこで書き物をしていたのです。症状は深刻で、この夏を乗り切れないのではないか、と診断を下した医師もいました。

シャルロットは裏切り者のジロンド党員を知っていると言い、マラーに接近しました。
近くの椅子に座り、彼女は党員の名をあげてゆきます。
マラーはそれを書き留めました。

気の毒な少女だ、こいつらに苦しめられているんだな、とでもマラーは信じていたのでしょうか。
「よくわかった。数日中に彼らをギロチン送りにしてやろう」
マラーがこう言うのを聞いて、シャルロットの決意は固まりました。

シャルロットの手にした包丁が、あばらの間を突き通し、肺の動脈を切り裂きます。
あふれる血が、浴槽の水を赤く染めてゆきます。そして……。
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