王侯貴族といえば日頃ぜいたくな暮らしをしていて羨ましい限り。
と言いたいところですが、戦争の際は最も危険にさらされる人たちでもあります。多くの場合、彼らを滅ぼさなければ戦争に勝ったとみなされないからです。
近代以降はそこまで物騒な事態に発展することは稀ですが、命が奪われずに悲惨な運命をたどった人が増えただけかもしれません。
1778年(日本では江戸時代・安永七年)12月19日は、マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスが誕生した日です。
この人は、ルイ16世とマリー・アントワネットの娘でした。
つまり「フランス最後の王女」とでも呼ぶべき人です。
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プライドが高い王家の娘なれど、気遣いもできる少女
弟のルイ17世と違って彼女は長生きします。
それでも幸せとは言いがたい人生を送りました。
母親のファーストネームと同じなのでややこしいですけれども、以下「マリー」とだけ書いた場合はこの王女のこととさせていただきます。
マリーの名前は、祖母であるマリア・テレジアのフランス語形です。
ブルボン家とハプスブルク家という正真正銘の王家のハイブリッドのため、小さい頃からプライドがかなり高かったとか。
しかし、自分の足を踏んだ養育係を気遣って怒らなかったりと、心配りもできる少女だったようです。
ルイ16世もマリー・アントワネットも政治的センスはあまりありませんでしたが、人の親としてはきっと優れていたのでしょうね。
これは後々のマリーの言動からもうかがえます。
しかし、革命が起きてからは一家揃って苦難の道を歩むことになりました。
ヴァレンヌ事件の後、マリーは家族とともにタンプル塔に幽閉され、両親と叔母エリザベートの処刑後は弟ルイ17世とも引き離されてしまいました。
ルイ17世は下の階にいたため、泣いている声がマリーの部屋まで聞こえてきていたとか……彼の惨状を考えると、それを聞いていたマリーも相当辛かったでしょうね……。
叔母の遺品である毛糸で編み物をしたり、カトリックの信仰が正気を保たせたといわれていますが、心の支えがあったとしても、たった一人でよく耐えたものです。
会話の機会に恵まれず発声異常をきたす
ロベスピエール処刑以降は待遇が多少良くなりました。新しくつけられた世話係の女性がマリーの境遇を哀れみ、生活用品や弟が飼っていた犬などを差し入れてくれたのです。
両親と叔母の処刑を知らされたのも、この女性からでした。
やっと温かく接してくれる人に出会えたからか、マリーはこの女性に心を開き、「ルネット」と愛称で呼んでいたとか。
ただし、2年もの間ほとんど会話をすることがなかったため、マリーは発声異常をきたしてしまい、生涯治りませんでした。
17歳のとき、母方の従兄弟に当たる神聖ローマ皇帝・フランツ2世が引き取ってくれることになり、オーストリアへ。
フランツ2世は比較的優しくしてくれたものの、ナポレオンの動きや世間の情勢により移動を余儀なくされ、ロシア・スウェーデン・イギリスを渡り歩きました。
ここからマリーは、ほぼ一生流浪生活を続けています。
オーストリア滞在中には、マリー・アントワネットが娘のために分散して預けていたお金や宝石をフェルセン伯爵がかき集めてマリーに届けてくれたこともありました。
流浪生活で唯一良かったことは、父方の従兄ルイ・アントワーヌとロシア領内で結婚したとき、叔父のルイ18世から両親の形見の結婚指輪を受け取ることができたことでしょうか。
ロシア皇帝・パーヴェル1世もマリー夫婦に同情したのか、ダイヤモンドや金、防寒具などを贈ってくれています。
が、やはり情勢の変化によりロシアにもいられなくなり、ワルシャワへ行くことになりました。
フランスから近いプロイセン=ドイツ一帯にブルボン家の人間を入れることは、ナポレオンを刺激することになるため、当時プロイセン領になっていた当地へ行くことになったのです。
この処置には、プロイセン王妃ルイーゼが骨を折ってくれています。
ルイーゼはマリー・アントワネットの幼なじみの娘だったため、以前文通でもしたことがあったのかもしれません。
財産を支援に回してお金も足りなくなり……
ワルシャワではマリーがカトリック信者であったことなどが幸いし、それまでと比べてかなり良い暮らしができたようです。
余裕ができた分は他のフランス亡命貴族や修道院への支援に回していたといいますから、この辺は母譲りの優しさや「ノブレス・オブリージュ」なのでしょうか。
が、そのうち人が増えすぎてお金が足りなくなり、パーヴェル1世から送られたダイヤモンドなどを売らねばなりませんでした。
この頃、マリーがよく泣いていたと書いている人がいるんですが、いったいどこでのぞき見たんでしょうねえ……。まさか人前では泣かないでしょうし。
その後、再度ロシアに行っています。
この時点ではまだナポレオンが上り調子だったため、スウェーデン経由でイギリスへ向かうことになりました。
イギリスではロンドンの北東にあるバッキンガムシャーという地域の城を借り、やっと落ち着くことができました。ロンドンの社交界にも参加し、多少なりとも穏やかに暮らせたようです。
マリーはイギリス滞在中、35歳のときに一度妊娠したことがあります。
しかし流産してしまい、その後再び子供を授かることはありませんでした。
現在でも高齢出産になる年齢ですから、当時はかなり難しかったでしょうね……夫婦仲は良かったそうなのですけれども。
ナポレオンいわく「ブルボン家唯一の男性」
フランスに戻れたのは、ナポレオンがロシア戦役に敗れた後のことでした。
ナポレオンによって出世した人々には心を許さず、苦難をともにした人々だけを信じていたといいます。そりゃそうだ。
また、このくらいの時期から弟を名乗る人物が現れ、マリーに面会を求めてくるようになりました。マリーはその誰とも会おうとはしませんでしたが、やはりどこかで生きていて欲しいと思っていたらしく、あちこちの関係者に弟の行方を問い合わせています。
結局、検死を行った医師が亡くなってしまったため、彼女がルイ17世の心臓を受け取ることはできませんでした。
ナポレオンがエルバ島から脱出してからの「百日天下」の際は、ブルボン家の軍に向かって大演説をしてみせたとも言います。
これを評したナポレオンいわく「ブルボン家唯一の男性」だとか。pgrしてるのか讃えてるのかどっちなんでしょうね。
日本でいうなら、承久の乱のときの北条政子あたりでしょうか。立場や経緯がだいぶ違いますけれども。
その後もマリーたちが一つ処に腰を落ち着けることはあまりなかったのですが、勇気と慈悲深さがうかがえるエピソードはいくつかあります。
夫の弟が亡くなったときは、残された妻と子供たちの世話を焼いていたりします。
甥っ子・姪っ子のために、かつて母が好んだプチ・トリアノンのような場所に住みたいと願い、屋敷を購入して図書室や農場を作ったりもしました。
これは後々手放さざるをえなくなってしまったのですけれども、自分の農場で採れる牛乳やクリームはお気に入りで、お客さんに振る舞うのも好きだったとか。
ルイ16世一家の棺は仏にあるのに、彼女だけ伊に
一時的に王政が復活した際には、その影響力の大きさから暗殺予告が来たこともあります。それ以上にマリーを慕う人のほうが多かったため、単なる脅迫で終わったようですが。
とはいえ時勢は再び王政廃止に動いていき、1830年の7月革命によって、またしてもマリー達は亡命することになります。
このときはイギリスに向かった後、フランツ2世を頼って当時オーストリア領だったプラハへ移転。
その後も各地を転々としたため、王族としては質素な生活は亡くなるまで続き、1851年肺炎で亡くなっています。
73歳といえば長寿でしょう。しかし、本来は生活苦などという言葉は文字の上ですら知らないような身分だったのに、ひとつところに落ち着くこともできなかったと思うと、彼女が可哀想過ぎますね……。
彼女のお墓はイタリアのゴリツィアというところにあるようです。
それってつまり、ルイ16世一家のうち彼女だけが死後も離れ離れということなんですよね。
ルイ16世とマリー・アントワネットの棺、そしてルイ17世の心臓はフランスのサン=ドニ大聖堂にありますので。
旦那さんがゴリツィアで亡くなっているので、そういう意味ではいいのかもしれませんが……。
日本でいう分祀のように、何かいい方法はないものでしょうか。
無実の罪で処刑されたルイ16世なぜ平和を願った慈悲王は誤解された?
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長月 七紀・記
【参考】
マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス/Wikipedia