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【尊厳王フィリップ2世】
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リチャード1世 クロスボウで射たれた傷が原因で死す
1191年、第三次十字軍が始まります。
この二年前、父に代わって即位していたリチャード1世は、イングランドの内政を放り出し、十字軍に全力を出します。
戦だけはカンペキな彼。無類の強さは語り草になるほどです。
フィリップ2世もこの十字軍には参加していましたが、リチャード1世と違い、あまりやる気はありません。
実際、彼は途中でそそくさと帰国。異教徒を倒す名誉よりも、自領の安定統治の方が大事だったのです。
さらに彼は、リチャードの弟ジョンを焚きつけ、イングランド王位を狙うよう唆(そそのか)します。
これを知ったリチャード1世は急いで帰国しようとします。
当時最強の騎士として知られる獅子心王がやって来れば、流石のフィリップ2世も焦ります。
頭脳戦ならばともかく、戦争をする相手としては危険過ぎ。
名将サラディン相手に激戦を繰り広げたリチャード1世の武勇を思い出し、フィリップ2世はさぞかし肝を冷やしたことでしょう。
ところがリチャード1世は、十字軍からの帰り道で捕虜になって莫大な身代金とともに釈放されるという、大失態を犯してしまうのです
やっと解放されたリチャード1世は、内政を放り出して渡仏。
フィリップ2世に向けて怒りを燃やしていましたが、1199年、クロスボウで射たれた傷が原因となって戦傷死してしまいました。
こうして彼は、元親友だか愛人だかよくわからんフィリップ2世へ襲いかかる前に、世を去ってしまったのでした。
イングランド王の後継者は弟のジョンとなります。
これはフィリップ2世にとって与し易い相手。御しやすい愚か者でした。
「失地王」が本当の意味での「失地王」に
リチャード1世の跡を継いだジョンは、ヘンリー2世の息子たちの中でも最も無能で、にも関わらず傲慢で野心家でした。
子供を溺愛していた母のアリエノールすら、この末子のことはあまり好きではなかったようです。
なんせジョンは、イングランド王の中でもワースト1の座は揺るがないと言われるほどの暗君でして。
「ジョン」という名前は不吉だから、王族につけないというルールがあったと言われるほどです。
20世紀、ジョージ5世にジョン王子という人物がいましたが、僅か13才で夭折しており、「やっぱりジョンは不吉だのぅ」となったとか。
そんなジョンの異名は「失地王(Lackland)」です。
これはもともと、末子の彼は相続できる領土がないというものでした。
生まれが遅いということだけで、本来でしたら彼に責任のないことでもあります。
しかしジョンは、その名に「バカで領地を失う」という不名誉な意味を持たせてしまいます。
背景にいたのは、もちろんフィリップ2世です。
ジョンは即位後、早速、問題を起こします。
彼はある女性をみそめましたたのですが、それがアングレーム伯の女相続人イザベルでした。
その時点で、ジョンにもイザベルにも婚約者がいたにも関わらず、彼女を攫い、強引に結婚してしまったのです。
この結婚は政治的にも有用なものでした。
花嫁の領地アングレーム領まで手に入るのです。
が、これが取り返しのつかない失敗となります。
まず、イザベルを奪われた元婚約者は、フィリップ2世にジョンの悪事を訴えました。
フィリップ2世としては、やはり笑いが止まらなかったことでしょう。
即座に「ちょっと話を聞きたいからパリまで出頭しなさい。君もアキテーヌ公であるからには、フランス王の命令には従うべきだよ」とジョンを呼び出します。
ジョンは、イングランド王とフランス貴族アキテーヌ公を兼ねていました。
フランス王に呼び出されたら、応じなければいけないわけです。
しかし無視を決め込むジョン。
命令に従わないなら仕方ないな、とフィリップはジョンの領地に出兵し、実力行使で領土を没収します。
さらには、アンジュー公アルチュールをジョンの領地に派遣。アルチュールはジョンの手によって捕縛され、消息不明となりました。
実はこのアルチュール、ジョンの兄であるジェフリーの息子です。
つまり叔父と甥の関係にあたります。
しかも、この殺してしまった甥は、リチャード1世亡き後のイングランド王位継承件で、ジョンよりも上にいたのです。
結果、「ジョンは潜在的な脅威となりうる甥を捕らえ、自らの剣で惨殺してしまった」と噂されるようになり、その話を聞いたフランス貴族たちに幻滅され、愛想を尽かされてしまいます。
後は、砂上の楼閣のごとく崩れてゆくのみ。
人格的に問題のあるジョンが次から次へとオウンゴール!してくれたお陰で、フィリップ2世としては策をめぐらすまでもありません。
まさに「計算通り」で笑いが止まらないのでした。
フランスを強大な王国にする
フィリップ2世が安定した内政を行う一方、ジョンは無軌道な政治を行い、内外の反感を買っていました。
高齢の母アリエノールがふんばって、息子の失態の尻拭いに奔走するような状態です。
ジョンは教皇庁とも揉め、1209年には破門。
これ幸いとフィリップ2世は大艦隊まで用意してイングランド侵攻を企みますが、教皇庁の介入により実行には移されませんでした。
そして1214年、今度はジョンが反撃に出ます。
親戚にもあたる神聖ローマ皇帝オットー4世らを集め、フィリップ2世打倒の兵を挙げるのです。
両軍はブーヴィーヌで激突!
連合軍は、数で勝るといえども、統一に欠けていました。
それに対してフィリップ2世の軍勢は整然とした状態です。
こうなると結果は火を見るより明らかで、フィリップ2世の大勝利、カペー王家は揺るぎない王家としての地位を確立したのでした。
ブーヴィーヌの戦いは、まさしくヨーロッパ屈指の、強力な王国が誕生した瞬間です。
フランスの領内に残されたイングランド王の領土は、百年戦争の敗北によってほぼ失われました。
大陸に残った最後のイングランド王領カレーも、1559年、フランスによって奪還されています。
ルイ7世の不幸な離婚によって始まった、イングランド王家とフランス王家のドロドロした因縁。
フィリップ2世が有能でなければ、あるいはジョンがもっとマシであれば、チカラが拮抗して、戦いはさらに長引いていたかもしれません。
イングランド側から見たフィリップ2世は、策謀に満ちた陰険な王です。
そのため、リチャード1世が登場する映画『ロビン・フッド』等でのフィリップ2世は陰険な男として登場します。
しかし、彼はまぎれもなくフランスを強大国に押し上げた英雄です。
歴史を大きく変えた、まさにアウグストゥスの再来でした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
佐藤賢一『カペー朝―フランス王朝史1 (講談社現代新書)』(→amazon)